歌
「歌、ですか」
デミガル王は気乗りのしない顔をした。
王妃の微笑に打ちひしがれて、余興の歌などを聴く気分ではない、という感情が、露骨に顔に出た。
「どなたが歌うのです」
その投げやりな質問に、リルティが、小さな、だがはっきりとした声で答える。
「私です」
「あなたが、ですか」
デミガル王は意外な顔をする。
「はい」
リルティは頷いた。
「どうかお聴きいただけませぬか」
デミガル王は一瞬、面倒そうな顔を見せた。
しかし、王女自らが申し出たものを無下に断るのも失礼だと思い直した様子で、頷く。
「ガイベルの歌ですか。きっと美しい歌でしょうな、あなたや王妃のように」
「いいえ」
リルティは首を振った。
「今宵はガイベルの歌は歌いませぬ」
「では何を」
「ムルボードに古くから伝わる歌だと聞いております」
「ムルボードに」
デミガル王が怪訝な顔をする。
「我が国の歌を、リルティ王女が歌われるのですか」
「ええ」
リルティは恥ずかしそうに頷く。
「ムルボードよりの旅芸人からこの歌を一度聴いて、それ以来もう耳から離れなくなりました。とても美しい歌。ムルボードの方も皆、ご存知だとか」
「さて」
デミガル王は、首を捻る。
「そんな歌がありましたかな」
「聴いていただけますか」
「ええ。それは、もちろん」
デミガル王の承諾を得て、リルティは振り返る。
アモル王が、続いてレイラ王妃が笑顔で頷く。
リルティは、ゆっくりと舞台の中央に進み出た。
観客席に正対し、胸の前でそっと手を組む。
その時まで、観客たちの意識はまだ半分以上がこの劇の流れよりもレイラに惹きつけられていたと言ってもいいだろう。
デミガル王とリルティ王女が何か話をしているが、それはともかくとして、この美しい王妃の笑顔から目が離せない。離したくない。
そう思ってレイラを見つめる観客がまだたくさんいた。
そんな雰囲気の中、リルティが小さく息を吸う。
高き山 深き谷
その歌声が、どこから発せられたのか、観客も最初は戸惑った。
中央に立つリルティ王女。
さっきまで囁くようなか細い声で話していたのと同じ人物が発する声とはとても思われなかった。
声量、だけではない。
声の深み。伸び。
本職の歌手もかくやと思わせる歌声。
観客たちの意識は、一気にリルティに惹きつけられた。
涙すら枯らす悲しみ
声すら上げられぬ絶望
物悲しい曲調。
リルティは歌う。
舞台の照明が、ふと、宴席の外で控えるデグを照らした。
デグは、歌声に気付いたように、顔を上げる。
この歌は、と口が動いた。
幾度試練に押し流されようとも
リルティが、視線を上へ向ける。
デミガル王がそれにつられたように上を見た。
観客たちの視線も、リルティの視線の先へ。
リルティの歌声が、明るさを伴って広がっていく。
それでも雲は巡り 鷹は舞う
このムルボードの地に
ムルボード王国の空まで届きそうな、伸びやかな声。
リルティの見上げる天井には、何もない。
何の演出もない。
最初は、天井を空に見立てて幻の鷹を舞わせる予定だった。
しかし、アルマークが反対した。
魔法の演出に頼らなくても、リルティの歌声なら、観客に空を舞う鷹を見せることができる。現に、僕には見えた。
そうだな、とウォリスもすぐに同意した。
リルティの歌には、余計な演出は不要だ。
デミガル王が、天井を見上げて目を見開く。
観客たちの目にも、きっと見えたに違いない。
ムルボードの険しい谷間のはるか頭上、空を雄大に翔ける鷹の姿が。
照明が、ガレインを照らす。
ガレインも目を見開いて、天井を見上げていた。
その顔が、何かを堪えるように赤く染まっている。
リルティは、視線を下ろすと、再び真っ直ぐに前を見た。
旧き森 猛き風
報われることなき刻苦
果たされることなき誓い
胸の苦しくなるような歌詞。
しかし一見嘆くだけの歌詞の中に、強い意思が潜んでいることを、リルティの歌声が気付かせてくれる。
この歌は、絶望の歌ではない。
ムルボードの民が、己の生の辛さを嘆く歌ではない。
幾度誇りを踏みにじられようとも
リルティが両手を広げた。
声もそれに合わせて伸びやかに広がっていく。
講堂全体へと。
「鷹だ」
アルマークは呟いた。
「鷹が見える」
「ええ」
ウェンディが頷く。
アルマークの隣で、天井を見上げる。
「とても高いところに」
「うん」
アルマークは頷いた。
それでも雲は流れ 鷹は啼く
このムルボードの地に
リルティの歌声が響く。
生の辛さは百も承知。
豊かな暮らしには程遠く、悲劇ばかりが訪れる。
だが、この地に住まうことの誇り。
ムルボードの民の矜持。
彼らは空を見上げ、胸を張る。
それでも雲は巡り 鷹は舞う
このムルボードの地に
照明に照らされたデグの頬を、涙が流れた。
リルティが腕を下ろす。
一瞬の静寂の後。
聞き入っていた観客たちが、これが劇中であることも忘れたように手を叩いた。
割れんばかりの大きな拍手。
リルティは、恥ずかしそうな顔で一瞬うつむきかけたが、すぐに思い直したように胸を張った。
拍手が一層大きくなる。
「すごいや、リルティ」
モーゲンが呟く。その目も涙に潤んでいた。
「これじゃ劇を再開できないよ」
「そうだね。さすがに今喋られたら、君の風で飛ばしても誰も聞こえないな」
バイヤーがそう言って頷く。
「少し待とう。リルティにはこの拍手を受ける権利があるよ」
ようやく拍手がやむと、リルティは一度深呼吸してから、デミガル王に向き直った。
「拙い歌声を」
「いや」
デミガル王は、首を振った。
「ムルボードの鷹。久しくこの歌を聴くことはなかった。忘れかけていたものを、思い出した」
そう言って、リルティに穏やかに微笑む。
「父祖の思い。民の矜持。素晴らしい歌声であった」
その言葉に、リルティが恥ずかしそうにうつむく。
「王」
まるで王女との会話に割って入るかのようにガレインがデミガル王に詰め寄った。
「どうか、ご命令を」
その目にも、涙が溜まっていた。
理屈では動かないこの男の胸にも、リルティの歌声が確かに届いたことの証だった。
だが、ガレインはそれでも忠誠を果たそうとした。
懐に右手を入れ、デミガル王を見つめる。
「どうか」
「もういい、ガレイン」
デミガル王はガレインの肩に優しく手を置いた。
「もういいのだ。余の負けだ」
ガレインが歯を食いしばる。
「すまぬ」
デミガル王の言葉に、ガレインは真っ赤な顔で、それでも何も言わず引き下がった。
「我らムルボードの民は」
デミガル王は、リルティに言った。
「普段から、自らを誇ることをあまりしませぬ」
台本にもなく、練習でも言ったことのない台詞だった。
頷くリルティの目に、ちらりと戸惑いが覗く。
「自らに、誇れるところなどさしてないと思っているからでもあります」
デミガル王はリルティに構わず即興の台詞を続ける。
「ですが、ここにいるガレイン。それに、外で待つデグ」
デミガル王はガレインの肩を叩いた。
「彼らも自らを誇らず、目立ちもせぬが、頼んだことは必ずやり遂げる。黙々と己の役割を果たす。これぞ、ムルボードの民」
そう言って、誇らしげに胸を張った。
「我が誇りです」
ガレインの身体がぶるぶると震えた。
と、見る間にその目から涙が溢れた。
「デグもガレインも」
ウォリスがガレインの涙を見ながら、言った。
「トルクとずっと一緒にいるが、おそらくあんな言葉をかけられたことはあるまい」
それから演出担当の方を振り返る。
「デグには照明を当てるなよ。外にいるはずなのに、王の言葉で泣いているのはおかしいからな」
「お二人の王への接し方を見れば」
リルティはそう言って微笑んだ。
「分かります。お二人もどんなに王を誇りに思っているのか」
デミガル王は頷いて、ガレインの肩を、強く叩いた。
ガレインは直立不動のまま、涙を流し続けた。
「リルティ王女」
デミガル王は言う。
「素晴らしい歌をお聞かせいただいたついでと言っては何だが、もう一曲、お付き合いいただけませぬか」
「もう一曲」
リルティは首を傾げる。
「もちろん喜んで。ですが、何の曲を」
「先ほどは音楽もなく素晴らしい独唱をされたが、次はこのデミガルが伴奏を務めましょう」
「まあ」
リルティが口元に手を当てる。
「滅相もない。王に伴奏をしていただくなど、畏れ多い」
「いいのです」
デミガル王は、舞台からひらりと身を躍らせた。
照明が、客席の脇に置かれた大きな古い鍵盤楽器を照らす。
「今宵は興が乗りました。王女にムルボードの歌を歌っていただけたので、今度はガイベルでも親しまれている有名な歌を。宝探しの歌は、ご存知ですか」
「ああ」
リルティの顔がぱっと明るくなった。
「それならば、歌えます」
「それは良かった」
デミガル王は鍵盤楽器の前に立った。
「歌ってくだされ。その天性の歌声で」
その指が、軽やかに鍵盤を叩き始める。
粗野にも、武骨にも見えたデミガル王の意外な演奏に、客席からも大きなどよめきが起きた。
トルクの普段の言動に似合わぬ、繊細な指の動き。
シーフェイ家の、残光。
流れるような前奏に続いて、リルティが再び口を開く。
心安き村から闇覆う山へ
険しき旅路は何の為ぞ
陽光溢れる街から霧に霞む森へ
長き旅路は何の為ぞ
求める宝は目に見えずとも
その心に確かに捉えたり
内に秘めし勁き心で
伸ばすその手は誰の為ぞ
父祖より受け継ぎし気高き心で
振るう剣は誰の為ぞ
求めた宝は目に見えずとも
その心に確かに宿りたり
リルティが歌い終えると、また満場の拍手。
デミガル王は、鍵盤楽器の前を離れ、舞台に舞い戻った。
「アモル王よ」
その声は、拍手の中でも堂々と響き渡った。
「実に素晴らしい宴でした」
そう言うと、身を翻す。
「今宵はこれにて」
「デミガル王よ」
アモル王の声に、デミガル王は振り向いた。
「我らガイベルは」
アモル王は言った。
「ムルボードとともに歩めるはず」
その言葉に、デミガル王は小さく頷くと、今度こそそのまま振り返らず、宴の間を後にした。
デグが王とガレインを出迎える。
「王」
デグの目も涙に濡れていた。
デミガル王は、デグの肩を乱暴に叩き、笑った。
「帰るぞ。ムルボードに」
「はい」
デグが頷き、ガレインとともにデミガル王に付き従う。
ムルボードの三人が王宮を去っていく。
暗転。




