理屈
「レイラ王妃は来ぬのか!」
ついに、立ち上がり声を荒げるデミガル王。
その時、舞台端に設えられた階段から、ゆっくりとレイラ王妃が下りてきた。
デミガル王がその足音に気付き、険しい顔で振り返る。
観客が息を呑んだ。
観客だけではない。
袖で見ている2組の面々も、もう練習でこの場面は何度も見たはずなのに、それでも目を奪われた。
アルマークと巡り会えたときのウェンディの、儚い美しさ。
アモル王への思いを秘めた魔女セラハの、妖しい美しさ。
勇気を振り絞ってネルソンの頬を叩いたノリシュの、健気な美しさ。
デミガル王に挨拶をしたリルティの、可憐な美しさ。
劇に登場した女子たちにはみな、違った魅力があった。
しかし、階段を下りてくるレイラのこの美しさは、なんと表現すればいいのだろう。
儚い、とか、健気、とかそんな言葉をつけることが、かえって邪魔になるような。
レイラ王妃が、デミガル王を見た。
その口元が優しく緩む。
冒頭から今まで、ずっと無表情を貫いていたレイラの表情が綻んだ。
笑った、と下級生の誰かが呟いた。
客席からは、それっきり、何の声も上がらなかった。
しん、と静まり返った中、レイラは微笑みを湛えながら、ゆっくりと階段を下りる。
「美」
ウォリスが呟いた。
「美、そのものだ。今日のレイラは」
「ああ」
アルマークは頷く。
「そうか。そうだね」
ウォリスの言うとおりだ。
余計な言葉は要らない。
美、そのもの。
背後に透けて見えるはずのレイラ王妃の物語も、それを演じるレイラ自身の物語も、今のレイラには何も要らない。
それら全てを、この美しい微笑みが飲み込み、覆い尽くしてしまった。
国の興亡や人間の生死、ましてや人間の感情の起伏など、この美の前では、些細なちっぽけなものに過ぎない。
ただ、見ていたい。感じていたい。
そう思わせるだけの凄み、迫力。
人間の原初の根源的な力が、レイラの微笑みにはあった。
「アルマーク」
背後から、ウェンディがそっとアルマークの肩を叩いた。
「トルクが」
「え?」
アルマークはトルクに目をやり、危うく声を上げそうになる。
トルク演じるデミガル王は、立ち尽くしたままレイラ王妃の登場を見つめていた。
練習ではいつも、トルクは、最初その微笑に呆気にとられ、その後で自分の目的を思い出して渋面を作ろうとするが、やはり最後はその美しさに圧倒されて見とれてしまうというデミガル王の複雑な表情をうまく演じていた。
うまいものだな、とアルマークはいつも感心していたのだが。
「泣いてる」
ウェンディの言葉に、アルマークは頷く。
「うん」
「初めて見た、かも」
その言葉に、見てはいけないものを見てしまった畏れのような響きが入り混じる。
「トルクが泣くところなんて」
ウェンディの言葉の通り。
トルクは泣いていた。
正確には、レイラを見つめたまま、唇を噛み締めていた。
そしてその目から溢れた涙が、頬を伝っていた。
トルクはそれを拭うでもなく、立ち尽くしたまま、レイラから目を離さない。
レイラも、そのトルクの様子を目にしてもいささかの動揺も見せなかった。
変わらぬ笑顔のままで、階段を下りきる。
トルクの涙を見ながらアルマークは、レイラの言葉を思い出していた。
「答えはないのよ」
レイラはそう言っていた。
「理屈ではないということよ」
「王妃の笑顔は心を映す鏡のようなものだから、それを見た人それぞれが感じることは違うの」
鏡。
そう、鏡だ。
今、トルクはレイラの笑顔を見ているけれど、同時に自分を見ているのだ。
レイラの笑顔に照らし出された、トルク自身の心の中を。
アルマークは思う。
そこに、何かがあったんだ。
あのトルクが涙をこらえきれないほどの、何かが。
そしてそれは、トルクにしか分からないことだ。
「大変お待たせいたしました」
デミガル王の前に立ったレイラ王妃が、優雅に腰を折った。
「レイラでございます」
「お、おお」
デミガル王が、思い出したように拳で乱暴に涙を拭った。
「レイラ王妃。噂通り、いや、噂以上の美しさ」
その言葉からは、もうすでに毒気が抜けていた。
「何をおっしゃいます。お戯れを」
レイラが口に手を当てて微笑む。
「さあ、お座りになられて。宴はこれからでございます」
言われるままに、デミガル王が腰を下ろす。
その目から、野心の炎が消えているのが誰の目にも分かった。
ああ。デミガル王は諦めたのか。
そこには何の説明もないが、観客の中にそれを疑問に思う者はいなかっただろう。
理屈など遥か彼方へと吹き飛ばす、レイラの圧倒的な美しさ。
その説得力たるや。
レイラはもう一度、ふわりと一礼すると、アモル王の隣に腰を下ろす。
観客の誰もが、その姿を目で追った。
「レイラも参りましたので」
アモル王がデミガル王に笑顔を向ける。
先ほどまでのおもねった笑顔ではない。
さながら、勝者の笑顔。
「さあ、宴の続きを」
意気消沈するデミガル王にそっと歩み寄る影。
王の腹心の部下、ガレインだった。
「王」
ガレインが、この劇で初めて言葉を発した。
低く抑えた声。
「必要とあらば、私がアモル王を」
そう言って、デミガル王と観客だけに、懐に忍ばせた短剣を見せた。
「ガレイン。おぬし」
デミガル王が言葉に詰まる。
デミガル王をはじめ、誰もがレイラの美しさに圧倒される中で、ここにもう一人、理屈ではない男がいた。
レイラの美しさがもはや理屈ではないのなら、ガレインのデミガル王への忠誠もまた理屈ではない。
それは、トルクに対するガレインの思いにも似ていた。
寡黙なこの男は、もとより理屈などを考えて動きはしないのだ。
志の挫けかけたデミガル王を、自らの命を張って鼓舞しようとする、ガレインの忠誠の形。
そこへ歩み寄るもう一つの影があった。
リルティ王女だった。
「デミガル王」
リルティのか細い声を、モーゲンの風が客席へ運ぶ。
「おう、これはリルティ王女」
デミガル王が顔を上げ、ガレインがそっと後ろに引き下がる。
「どうなされた」
「あの」
リルティは少しためらい、それからデミガル王の顔を見た。
「ムルボードの王家の紋章は、鷹だと伺いました」
その言葉に、デミガル王は頷く。
「ええ。ムルボードは険しい山々に囲まれておるゆえ、鷹が多く棲みます。我が王家の紋章もそれを象ったもの。それが、何か」
「実は」
リルティは恥ずかしそうに言った。
「歌を一曲、歌わせていただきたく」




