笑顔
場面は変わる。
宴の場面だ。
豊かさを誇るガイベル王国のそれは、ムルボードとは比べ物にならぬほど豪華なものだった。
アモル王がデミガル王を招き入れ、宴が始まった。
さて、この劇ももうすぐ終わりだな。
練習どおりにデミガル王を演じながら、トルクは思った。
俺が煽って、レイラが出てきて、リルティが歌を歌って。
俺はレイラの笑顔をうっとりと眺めてやりゃあ、あとはリルティの伴奏をするだけだ。
それで、長々と練習を重ねてきたこの劇もおしまいだ。
「素晴らしいですな、アモル王」
デミガル王は言う。
「なんと豪華な。豊かな国だ、ガイベル王国は」
アモル王にそんなことを言いながら、トルクは頭の中で別のことを考える。
嫌いなんだよ、俺は。
この宴ってやつがよ。
初めて貴族同士の宴とやらに出たのは、多分4歳かそこらのとき。
トルクはそこでのことをほとんど覚えていない。
ただ、シーフェイ家の末子であるというだけで、たくさんの大人が自分を褒めちぎってくれたこと。
自分よりも年上の子どもたちが、自分の名前を呼び、一緒に遊ぼうと誘ってくれたこと。
それは覚えている。
その時に、トルクは知ったのだ。
自分はこういう存在なのだと。
自分はこういう人生を生きていくのだと。
理屈ではなく肌で理解した。
シーフェイ家の一員であることへの誇りとともに。
だが、次に出た宴では、全てが違っていた。
トルクがこの学院に来ることが決まった直後くらいのことだ。
違っていて当たり前だった。
トルクとは二十近くも年の離れた長兄のブルスターが、王の失脚を図る計画に連座して牢に繋がれた後だったのだから。
関わった多くの貴族の家が取り潰されたその事件で、シーフェイ家がなぜ取り潰されなかったのか。
詳しい事情を聞かされなかったトルクには、今でも本当の理由はわからない。
容姿端麗、才気煥発で、多くの人を惹きつけたブルスターといえども、所詮は二十代の若者。計画に単に名を連ねたに過ぎなかったからなのか。
それともシーフェイ家をわざわざ取り潰さず、その惨めなさまを見せることで、他の貴族への見せしめにしようとしたのか。
ガライ王の考えは、推し量ることしかできない。
いずれにせよ、そのとき参加を余儀なくされた宴での自分への待遇を思い返すと、トルクの身体は今でも怒りで熱くなる。
そうか、俺は。
トルクはその時に思ったのだ。
俺は、このために生かされたのか。
長兄の愚かな行為の代償を、世に示すための見せしめとして。
それが俺の人生なのか。
トルクは目に焼き付けた。耳に染み込ませた。自分を蔑む目を。声を。
俺のこれからの人生は、この目、この声に埋め尽くされるのか。
その絶望、悔しさを決して忘れないように。
そしてそれを、自分の力にするために。
自慢の長男を失った父は、もはや王の慈悲にすがって生き延びることしか考えられぬ哀れな老人に過ぎなかった。
それはトルクのほかの兄や姉にしても同じだった。
シーフェイ家はその地位から転落し、継ぐべき領地もほとんどを失った。
「トルク。お前が欲しいならくれてやるよ、こんな家」
ある日の夜、そう言いながら酒臭い息を吐きかけてきた次兄の頭に、トルクは酒の瓶を叩きつけた。
血塗れになって床でもがく次兄に、トルクは言い放った。
「ああ。いらねえなら、俺がもらう」
「お前はノルク魔法学院に行くんだろうが」
次兄は叫んだ。
「そこでほかの貴族のご令嬢でも見付けてその家に入るつもりだろうが」
「そんな女々しいことを、誰がするか」
トルクはもう一度酒瓶を振り上げたが、今度は思い切り頬を殴り飛ばされた。
床に転がって口の中を血だらけにしながら、それでもトルクは叫んだ。
「父上も、兄上も、姉上も、みんな腰抜けだ。俺は捨てねえ。この家も、この名もだ」
「ふざけるんじゃねえ」
次兄の目に涙が浮かんでいた。
「お前がシーフェイ家の人間である限り、お前に未来なんかねえんだ。意地を張るな。無駄な夢を見るな。お前はさっさと魔術師になれ。それがお前のためなんだ」
うるせえ、とトルクは思った。
負け犬は黙って泣きながら酒でも飲んでろ。くそが。
魔法の才能。
そんなものはあろうがなかろうがどうでもよかった。
この学院を足がかりに、のし上がる。
まずは誰も文句をつけようのない一流の魔術師になる。
誰にも、俺を舐めるような真似ができないような、そんな魔術師に。
俺がシーフェイ家の人間だと知っても、何も言えなくさせる。
それがトルクの強い意思の源泉だ。
同じ学院で学ぶ平民の生徒たちは、実に目障りだった。
シーフェイ家が没落すると分かった途端、災いが自分たちにも及ぶのを恐れて我先にと逃げ出していった使用人たち。
昨日まで、坊っちゃん坊っちゃんと自分を持ち上げていた彼らが、目も合わさずに去っていく。
家財道具をこっそりとくすねながらだ。
その背中を見ながら、トルクは思った。
逃げたいのなら、逃げればいい。
お前らは何者でもないのだから。
別の貴族にでも雇われて、何事もなかったように働けばいい。
何者でもない人生を全うすればいい。
だが、俺はお前らとは違う。
俺はトルク・シーフェイだ。
逃げたくても逃げられぬ、一族の名を背負った男だ。
平民出身の同級生を見ていると、こそこそと逃げていった彼らの背中を思い出した。
現に、彼らもまたトルクをはじめとする貴族出身の生徒たちの顔色を窺っていた。
授業の取り組みも、トルクの目には実に甘っちょろく見えた。
また、逃げるんだろ?
トルクは彼らにいつも心の中でそう問いかけていた。
お前らは、やばくなったらどうせまた逃げるんだろ?
何者でもないお前らは、どこへでも安全なところへ行って擬態して生きていけばいい。
だから、俺の前でうろちょろするな。
貴族である俺の、邪魔をするな。
ああ、また嫌なことを思い出したな。
トルクは内心で舌打ちした。
アモル王に向けて台詞を言った拍子に、袖に立っているアルマークの姿が目に入る。
あいつが来てからだ。
おかしくなったのは。
2年も遅れて北の果てからやって来た、おかしなやつ。
南や中原での常識、暗黙の了解である貴族と平民の壁。
それがまるで単なる生まれた場所の違いででもあるかのように振る舞い、そして事実その壁を軽々と越えていく、異分子。
他の連中も少しずつそれに感化されていくのが、トルクには不快であり、気味が悪くもあった。
あいつの実力は認める。
あいつには確かに才能がある。
だが、俺はあいつに引っ張られたりはしない。
「ムルボードには」
デミガル王は言った。
「このように豊富な産物はありませぬからな」
そうだ。
俺はまるでムルボード王デミガルだ。
キュリメのやつ、おとなしい面して、人のことをよく見てやがる。
ムルボードに暮らし、ガイベルの土地を羨むように。
貧弱な才能しか持たず、恵まれた才能を妬んでいる。
羨ましい? ああ、羨ましいさ。
アルマークの、ウォリスの、ウェンディの、ロズフィリアの、あいつらの恵まれた才能が。
だが、同時にこうも思う。
お前らは走っていけばいい。
その才能を輝かせて、先へ先へと走っていけばいい。
だが、いつか転ぶ。
長兄のブルスターのように。
その時は、俺が。
一歩一歩、歩み続けた俺が、お前らを抜かすときだ。
「レイラ王妃はまだですかな」
いよいよ狙いを隠さなくなり始めたデミガル王のあからさまな要求に、アモル王がとりなすように頷く。
「今しばしお待ちを」
「今しばし、今しばしと」
デミガル王は声を張り上げた。
「先ほどから同じことの繰り返し」
そう言って、大げさに両腕を広げる。
「どうやらこの国の時間の流れは、我らの国とは違うらしい」
「今しばし」
アモル王が苦しそうに繰り返す。
「もうずいぶんと待ちましたぞ」
デミガル王は言った。
「レイラ王妃はいらっしゃらぬのか」
ああ、そうだ。
レイラだ。
トルクは考える。
演技は、自分の中のデミガル王が半ば無意識にやってくれる。
それがいいのか、悪いのか。
さっきから、そのせいでつまらない余計なことばかりが頭をよぎる。
この学院に入学してまもなくのことだ。
可愛いけど怖い女がいる、と噂になった。
それがレイラだった。
トルクには、ひと目見てすぐに分かった。
ははあ、こいつは俺と同じだな、と。
自分と同じ、自分一人の力ではどうすることもできない家の事情を抱えて、それでもそれを自分一人の力でどうにかするために、この学院の門をくぐった。
そういう人間だ。
そんなことは、その目を見ればすぐに分かった。
根っこにあるものはトルクと似ていたが、レイラのやり方、誇りの持ち方はトルクとは違った。
その美しい整った顔をいつも必死に強張らせて、人よりも三歩先を。五歩先を。
才能に恵まれながら、いつも何かに苛立ち、何かに追われているかのように。
それは、トルクのやり方ではない。
それは、ブルスター兄貴のやり方だ。
だから、足元をすくわれる。
武術大会で、ロズフィリアに不覚を取る。
そして、また一人、歯を食いしばる。
それじゃ同じことの繰り返しなんだよ。
俺は、二歩も三歩も飛ばさない。
力を蓄える。一つ一つ、じっくりと。
自分の才能のなさを知っているから。
「レイラ王妃は来ぬのか!」
ついにデミガル王が立ち上がって叫んだ時だった。
舞台の端に袖にかかるようにして、わざわざこのために設えた階段。
十段にも満たぬ高さだが、モーゲンがアルマークたちと苦労して作った力作だ。
その階段をゆっくりとレイラが下りてきた。
ほら、あとはレイラの笑顔を見て、俺がうっとりした顔を見せりゃ、この場面は終わりだ。
デミガル王はレイラの足音に気付いたように、そちらを見た。
こつ、こつ、と硬い音を響かせて、一歩ずつ階段を下りてくるレイラ。
観客たちが息を呑むのが分かった。
トルクはレイラの顔を見上げた。
くそったれが。
トルクは心の中で吐き捨てた。
劇の本番でなければ、床に唾を吐いていたところだ。
必死に重荷を背負って、自分を鼓舞して、折れそうなくらいに張り詰めた心。
それを隠そうともせず、いつも周囲を威圧していたレイラ。
俺が二年間見てきたレイラは、ずっとそうだった。
いずれ、折れるだろうと思っていた。
心か、身体か。どちらかが保たなくなって、ぽっきりと折れるだろうと。
そこがお前の限界なんだ、と。
別の選択をした自分自身を見るような気持ちで、トルクはどこか冷静にレイラのその姿を眺めていた。
アルマークだ。
その名前を出すと、本当に何か見知らぬ異物を間違えて飲み込んだような気分になる。
あいつのせいで、モーゲンが。ネルソンが。ウェンディが。
みんな変わった。
レイラが、デミガル王の顔を見て、微笑む。
一点の曇りもない、美しい笑顔。
トルクの脳裏に、一瞬、アルマークの背中が浮かんだ。
森でジャラノンを追ったとき、トルクのはるか前方をこともなげに走っていた姿。
まただ。
また、俺はこれを見せられるのか。
トルクは演技を忘れた。
うっとりと見つめる、なんてとてもできなかった。
足の速え奴ばかりだ。どいつもこいつも。
トルクは唇を噛んだ。
レイラ。
お前が。
くそったれ。
レイラ、あのお前が。
お前がそんな顔で笑えるのかよ。
トルクの頬を涙が伝った。
ゆっくりと階段を下りてくるレイラ王妃の、美しい笑顔。
それを見つめながら、デミガル王は立ち尽くし、涙を流した。




