爪痕
時間は少し遡り。
アルマークとの戦いを終え、ネルソンとノリシュが連れ立って舞台袖に下がったその時だった。
不意に、ネルソンの身体がぐらりとよろけた。
「ネルソン!」
慌ててノリシュが支えようとするが、ネルソンはそのまま力なく膝をつく。
「しっかりして」
二人の様子に、他の生徒が慌てて駆け寄る。
「大丈夫か」
真っ先に駆けつけたウォリスの声に、ネルソンは頷いた。
「ああ。わりい、少し気が抜けた」
しかしウォリスはその言葉に構わず、ネルソンの右腕を掴む。
「む」
「あっ」
ノリシュが息を呑む。
ネルソンの腕は赤く腫れ上がっていた。
「アルマークか」
ウォリスは顔をしかめる。
「主演を壊してどうする気だ」
「いいんだ。俺が仕掛けたんだ」
ネルソンは首を振る。
その全身もいつの間にか汗でびっしょり濡れていた。
「全力で戦えて満足してるんだ。あいつは手加減してくれてたよ。怪我したのは俺がしくじったからだ」
「とにかく治療だ」
ウォリスは舞台を見た。
「アルマークとウェンディの場面の次はもう魔女との対決だ。今のうちに治すぞ」
そう言って、後ろのモーゲンたちを振り返る。
「ガレインはこの場面の演出に集中してくれ。デグは水を。モーゲンは剣を外してやってくれ」
「うん、分かった」
モーゲンがすぐにネルソンの腰に手を伸ばす。
ガレインは無言で頷いて舞台に目を戻し、デグは舞台裏に走る。
モーゲンはネルソンの剣を手に取ると、目を丸くした。
「ああ、やっぱりぼろぼろだ。よく鞘に収められたね」
「収めねえとかっこつかねえからな。無理やり収めちまった」
ネルソンが汗まみれの顔で苦笑いする。
「これ、抜けるかな」
モーゲンが柄を持って引き抜こうとするが、剣はびくともしない。
「むぐっ……ダメだ」
「トルクのところに持っていくんだ」
そう言いながらウォリスはネルソンの腕に手をかざす。
治癒術の暖かい光が舞台袖の暗闇を照らし出す。
「ガレイン、演出は僕たちの前に立ってやってくれ。光が舞台まで漏れないように」
そう言いながら、ウォリスは心配そうに見守るノリシュに目をやる。
「ノリシュ。君の出番ももうすぐだ。こっちは僕たちがやる。君は休んでいろ」
「うん、でも……」
ノリシュが気遣わしげな表情を見せたとき、裏からレイラとリルティが駆けてきた。
「こっちは私達に任せて」
レイラがノリシュに言って、ネルソンの腕を取る。
「ウォリス。まず椅子に座らせましょう」
「そうだな。助かる」
ウォリスとレイラが、リルティの差し出した椅子にネルソンを腰掛けさせ、デグの持ってきた水を飲ませていると、裏からモーゲンとトルクが戻ってきた。
「ウォリス。こいつはダメだ。無理に抜いたら鞘のほうが割れちまう」
トルクの言葉にウォリスは顔をしかめる。
「君の力でもダメか」
「どうしよう、ウォリス」
不安そうなモーゲンの顔を見て、ウォリスは頷く。
「やむを得んな」
ネルソンの腕から手を離すと、レイラを振り返る。
「レイラ、頼めるか」
「ええ」
レイラはすぐにウォリスの後を引き継いで、ネルソンの腕に手をかざした。
ウォリスはモーゲンに向き直る。
「モーゲン、剣の予備はあったね」
「うん。持ってきてある」
モーゲンが袖の床に置かれた新品の木剣を指差す。
「鞘は?」
「鞘はないよ」
モーゲンは首を振る。
「剣は壊れるかもしれないから予備を作っていたけど。まさか鞘まで壊れると思ってなかったから」
「そうか」
ウォリスは、トルクから抜けなくなった剣を受け取ると、自分でも二三度引っ張ってみる。
「無理だ」
トルクが腰に手を当てる。
「俺とモーゲンで引っ張り合ってみたがダメだった。おまけに変な音を立て始めやがったから、それ以上はできなかった」
「ふむ」
ウォリスは思案顔で鞘を見た。
複雑な紋様の彫り込まれた、モーゲンの力作だ。
「よし」
ウォリスは頷いてモーゲンを見る。
「モーゲン、木材の余りは」
「裏にあるけど」
モーゲンが答えると、ウォリスは手を差し出す。
「予備の剣を」
「あ、うん」
モーゲンは床の剣を拾い上げてウォリスに手渡した。
「でも、どうするの」
「モーゲン、君はまだ出番があるだろう。もうこっちはいいから、バイヤーのところへ」
ウォリスはそう言って、トルクを見た。
「トルク。手伝ってくれ」
「お前の考えてることは分かるぜ」
トルクはため息をついた。
「人使いの荒いクラス委員様だぜ、まったく」
「急ごう」
ウォリスはトルクを伴って舞台裏に走った。
舞台上でウェンディがその姿を徐々に消そうとしている頃。
客席にはすすり泣きの音があふれていた。
袖からも、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたネルソンの父親とフィッケや、ハンカチを目に当てるカラーの姿が見えた。
そこへ、ウォリスとトルクが舞台裏から駆け戻ってきた。
ウォリスの手には、真新しい鞘と、それに収まった剣。
「まだアルマークたちの場面は終わっていないな」
舞台を一瞥してウォリスが頷く。
「演技はどうだ」
「すげえよ」
ネルソンが答える。
その顔に、血の気が戻ってきていた。
「最高だぜ、あの二人。講堂中が泣いてる。まるで演技じゃねえみたいだ」
「そうか」
ウォリスは微笑む。
「そうだろうと思っていた」
「へっ」
トルクは鼻で笑う。
「見なくてよかったぜ」
それからガレインの肩を叩く。
「ガレイン、暗転は長めに取れ」
「僕もそれを言おうと思っていた」
ウォリスが笑う。
「観客には少し余韻に浸っていてもらおう。ネルソン、これを」
差し出された剣を見て、ネルソンは目を丸くした。
「この鞘、新しく作ったのか」
「石刻みの術の応用だ。大したことはない」
ウォリスは答える。
「モーゲンの装飾よりもだいぶ簡単になっているが、そこは勘弁してくれ」
「いや、そりゃもちろん」
そう言って、ネルソンは剣を抜いてまた目を見開く。
「剣の模様も」
予備の剣にはなかったはずの、精霊王ウォリスの加護の証たる流線型の模様が、きちんとそこに浮かび上がっていた。
「そこはトルクがやってくれた」
ウォリスの言葉に、ネルソンがトルクを見る。
「助かるぜ、トルク」
「どうってことねえ」
トルクは肩をすくめてから、にやりと笑った。
「だがまあ、アルマークの野郎との立ち合いは悪くなかったな。武術大会でエストンとやったときよりはずいぶんマシだった」
「うるせえよ」
ネルソンは苦笑いする。
そのとき、舞台が暗転した。
舞台袖も同時に闇に包まれる。
その中で、レイラの手の発する治癒術の光だけがネルソンの腕を照らしていた。
「さあ、この劇もあと少しだ」
ウォリスが言う。
「ネルソン、踏ん張ってくれよ」
「ああ」
ネルソンは力強く頷く。
「ありがとな、レイラ」
「ええ」
レイラはネルソンの腕から手を離すと、立ち上がった。
「頑張ってね」
ネルソンは立ち上がり、右腕を二、三度曲げてみせる。
「なんともねえ」
そう言ってレイラに笑いかける。
「さすがだな」
「今日のあなたは素晴らしいわ、ネルソン」
レイラは答えた。
「私達に最後まで、あなたの光を見せて」
「任せろ」
ネルソンはレイラに頷くと、身を翻してノリシュの隣に立った。
「もういいの?」
ノリシュがちらりと心配そうな表情を覗かせるが、ネルソンはもういつもの調子に戻っていた。
「は? 何が?」
「ならいいわよ」
ノリシュは肩をすくめる。
アルマークが反対の袖に去っていくのを見て、ネルソンはノリシュに囁いた。
「アルマークたち、すげえ良かったな……お前、さっき泣いてただろ」
「別に」
ノリシュが慌てて目をこすって首を振る。
「うるさいな。あと少し、集中しなさいよ」
「そりゃこっちの台詞だ」
ネルソンは笑う。
そこに、黒いドレスの魔女がゆっくりと現れた。
袖での先ほどの騒動でも、セラハは舞台裏から決して姿を現さなかった。
「ネルソン、大変だったみたいね」
セラハはネルソンの隣に立つと、そう言った。
「アルマークと本気でやりあったら、それくらいのことにはなるわよね」
「まあな。でももう大丈夫だ。心配はいらねえよ」
「心配なんかしてないわ」
セラハは笑った。
「手加減なんかしないから、そのつもりでね」
「おう。当たり前だ」
ネルソンは笑い返す。
「手加減なんかいるかよ。本気でやるぜ、魔女セラハ」
「ええ」
セラハは頷いた。
「覚悟してね。騎士ネルソン」




