別れ
ネルソンの剣が胸を貫くと、アルマークはそのまま二歩、後ろによろめいた。
アルマークの手から落ちた剣から闇が消え、塗装の剥げたぼろぼろの木剣が露わになる。
息を止めたようにネルソンの顔を見たアルマークの背中から、黒い霧のようなものが立ち上り、蒸発するようにして消えた。
「見事」
アルマークは言った。
穏やかな、険のない声。
ネルソンは厳しい表情のまま、その顔を見る。
「見事だ、ネルソン。ガイベルの騎士の精華よ」
アルマークはそう言って、ゆっくりと天を振り仰ぐ。
「ずっと、悪い夢を見ていたようだ」
その顔も、先ほどまでの凶悪な笑顔などもはや微塵も感じさせない穏やかなものに一変していた。
「アルマークさん、呪いが」
ノリシュが言いかける。
それを制するようにネルソンがゆっくりと立ち上がった。
「許せ、アルマーク」
ネルソンは言った。
「汝を救うと約束した。だがそれがしはこれ以外に救うすべを知らぬ」
アルマークは微笑んで首を振る。
「ずっと、誰かに殺してほしかった」
憑き物が落ちたような、先ほどまでの荒ぶっていたアルマークとはまるで別人のような声だった。
「ようやく死ぬことができる」
アルマークは晴れ晴れとした顔で言った。
「騎士ネルソン。お前の勝ちだ」
笑顔で勝者を称えると、アルマークは真っ直ぐに観客席の奥を指差した。
「行くがいい。魔女セラハはこの先にいる」
「うむ」
ネルソンは頷き、いまだ光を放ち続ける剣を、窮屈そうに鞘に収めた。
「ノリシュ殿」
その呼びかけに、辛そうな表情を見せていたノリシュが顔を上げる。
「はい」
「行こう」
ネルソンの表情はあくまで明るかった。
「使命を、果たそうぞ」
その言葉にノリシュが頷く。
「はい」
ノリシュがネルソンの元に駆け寄るのを見てから、アルマークはゆっくりと床に座り込んだ。
「一つだけ教えておこう」
アルマークはネルソンに呼びかけた。
「魔女の弱点は、ここだ」
そう言って、自分の胸元あたりを親指で示す。
「救ってやってくれ、お前の剣で俺のように」
アルマークは穏やかに笑った。
「あれも可哀想な女だ」
「その言葉、覚えておこう」
ネルソンは頷いた。
「さらば、アルマーク。誉れ高き伝説の剣士よ」
ネルソンは身を翻した。
「汝は誰よりも強かった」
アルマークは笑って、もう答えなかった。
ネルソンとノリシュが去ったあと。
舞台には、床に座り込んだアルマークと、悲しそうに立ち尽くすウェンディだけが残った。
呪われた剣士アルマーク。
今回の劇のためにアルマークの作り上げたその心は、騎士ネルソンとの戦いではアルマークの心のほとんどを占めていた。
だが、激しい戦いが終わった今、静けさの中でアルマークは本来の自分の感覚を取り戻しつつあった。
役としてのアルマークと、素の自分としてのアルマーク。
それが心の中で渾然一体となっているような、奇妙な感覚。
しかしアルマークには、それが嫌ではなかった。
戦いを終えた高揚感はまだ残っている。
だが、不思議なほどに穏やかな気持ちだった。
それは、ネルソンとの戦いの中で、自分の暗い部分を全て吐き出し、受け止めてもらえたからなのかもしれなかった。
ライヌルの置土産の、心に巣食った闇が、ようやくはっきりと晴れた気がした。
しばしの静寂のあと、アルマークは顔を上げ、ウェンディを見た。
辛そうにうつむいているウェンディ。
女を泣かすな。
そう怒られたばかりだった。
ネルソンの言うとおりだ。
いつまでも、ウェンディにあんな顔をさせていてはいけない。
「ウェンディ」
アルマークは穏やかに呼びかけた。
ウェンディが顔を上げてアルマークを見る。
アルマークの目の前には、涙で目を真っ赤にしたウェンディの姿があった。
いつもは見ない髪型。見慣れない衣装と化粧。
だけれども、紛れもなくウェンディが目の前にいた。
劇が始まってから、別にそれほど離れていたわけでもないのに、こうして目を見つめ合うのはひどく久しぶりな気がした。
きっとそれはお互いにこのわずかな時間の中で、それぞれの人生を生きたからだ。
呪われた剣士アルマークと、その恋人ウェンディの人生を。
「ウェンディ」
アルマークはもう一度言った。
穏やかな声。
「俺にも、お前の姿が見える」
その言葉にウェンディの顔が歪んだ。
「アルマーク」
ウェンディは絞り出すように答えた。
「私」
それだけ言って、言葉が続かなくなった。
客席からすすり泣きが漏れた。
「ずっと、深い霧の中にいた」
何も言えなくなったウェンディの代わりに、アルマークは言った。
「お前がいなくなってから、ずっとだ」
ウェンディの不在。
恋人を喪った剣士アルマークの悲しみ。
突然にウェンディから距離を置かれたアルマーク自身の悲しみ。
深さも形も違うけれど、それは奥底のほうで繋がり合っている気がした。
光を失った感覚。
その悲しみはこの森に立ち込めていた深い霧と同じだった。
「だが、霧は晴れた」
アルマークは微笑んだ。
ネルソンが全て受け止めてくれた。
太陽の明るさで霧を吹き飛ばしてくれた。
僕とウェンディも、それぞれに全力を尽くした。
「今はお前が」
君が。
「こうしてはっきりと見える」
ウェンディと見つめ合うことができる。
ウェンディが目をそらさずにアルマークを見つめ返してくれる。
それ以外に何が必要だろう。
アルマークの胸はその喜びで満たされていく。
「私」
ウェンディが言った。
「ずっと、あなたを呼ぼうとした。あなたにちゃんと伝えなきゃって」
ウェンディの目からまた涙がこぼれた。
「でも、どうしていいか分からなくて。あなたにどう伝えればいいのか、私には」
「いいんだ」
アルマークは首を振った。
今はもう、わだかまりは何もなかった。
「お前は来てくれた。この森に」
僕と、ライヌルの前に。
自分の身も顧みず、ウェンディは来てくれた。
そして必死で僕を助けてくれた。
言葉で。心で。
いつも僕に呼びかけてくれた。
それだけで十分だった。
けれど。
アルマークは、傍らに転がる、ぼろぼろになった木剣を見た。
モーゲンが僕のために、僕の長剣に似せて作ってくれた剣。
アルマークは思い出す。
自分とウェンディの前にこれから立ちふさがるであろう障害のことを。
そしてそれからは、逃げることも目をそらすこともできないのだということも。
アルマークは自分の両手を見た。
呪われた剣士。
北の傭兵の息子。
今、喋っているのは剣士アルマークなのか、それとも本当のアルマークなのか。
アルマーク自身にもよく分からなくなっていた。
でも、それでいい気がしていた。
「ウェンディ」
アルマークは呼びかける。
「たくさんの人を斬ったよ」
僕はたくさんの人を斬った。
ウェンディの目から、また一筋、涙が流れた。
「この森で」
北の戦場で。
旅の途中で。
冬の屋敷で。
「俺の両手は」
僕の両手は。
「もう血で汚れている」
洗っても洗っても落ちない血で。
アルマークはうつむいた。
ウェンディの顔を見ていることができなかった。
「お前を」
君を。
「抱き寄せることもできないくらいに」
わずかな間があった。
うなだれるアルマークの耳に、ウェンディの静かな足音が聞こえた。
ウェンディがゆっくりと歩み寄ってくるのが分かった。
「アルマーク」
その声が、アルマークの頭のすぐ上から降ってきた。
まるで、天の啓示のように。
「あなたの両手が」
ウェンディは言った。
「ううん、両手だけじゃない。たとえあなたの全身が、洗い流せないほどの血で汚されていたとしても」
ウェンディの声が震えた。
「あなたの魂までは、誰にも汚すことはできない」
アルマークは顔を上げた。
涙で濡れた、けれど強い、真っ直ぐな瞳と目が合った。
「私は知っているわ」
ウェンディは言った。
「あなたの魂の気高さを」
これは、亡霊ウェンディの言葉だろうか。それとも、本当のウェンディの。
アルマークは呼吸を忘れたように、ウェンディを見た。
「それは魔女の呪いや血や、闇なんかでは、汚せるものなんかじゃない」
ウェンディが強くはっきりと言い切った。
「アルマーク。あなたは汚れてなどいない」
息が詰まった。
ウェンディ。僕は。
ごめん。僕は君を。
「ウェンディ」
呼びかけると、その足先から徐々にウェンディの姿が薄くなってきているのが分かった。
もう、別れの時間だった。
伝えるべきことを伝えなくては。
アルマークは覚悟を決める。
「ウェンディ、俺がこれから行くところは」
僕がこれから向かう先は。
「きっと、地獄だ。だがそれでも」
それでも、君といたい。
君とともに歩みたい。
「俺についてきてくれるか、ウェンディ」
ウェンディが微笑んだ。
一瞬で生気が戻ったかのような、美しい、けれど力強い笑顔。
「ついていくわ」
ウェンディは言った。
「あなたの行くところへ、どこへでも」
「そうか」
アルマークは歯を食いしばった。
そうしないと、涙がこぼれて何も言えなくなりそうだったから。
「それでは、ともにいこう」
アルマークは消えゆくウェンディに言った。
「ともに、在ろう」
「はい」
澄んだ鈴のように、髪飾りが音を立てた。
ウェンディの姿が消えた後、しばらくその虚空を見つめていたアルマークが、やがて目を閉じる。
暗転。




