海
アルマークの呼び掛けに、レイラはゆっくりと振り向き、声の主を見て、ため息をつく。
「あなたは」
そう言ってレイラは意外にも微笑んだ。
「いつも会いたくないときに現れるのね」
「ごめん」
謝って、アルマークはレイラの隣に立ち、海を見る。
「何を見てたの」
「別に何も」
言いながら、レイラも海に向き直る。
「ほら、何も見えないでしょ」
その声はあくまで穏やかだ。
「海だね」
アルマークは目を細めた。
この海の向こうはレルブダだが、今日は見えない。
「嫌なことがあったら、ここへ来て海を眺めるの」
でも、今日は。レイラは苦く笑う。
「何も見えないのよ」
そう言って首を振る。長い髪が海風に揺れる。
声が穏やかな分、レイラの傷の深さがアルマークにも分かった。
最初の衝撃が去り、穏やかな口調で話せるようになって、それでも尚、クラスメイトの勝利をともに喜ぶことのできないくらいの傷。
「レイラ、前に言ってたじゃないか」
アルマークは言った。
「私の目標は高いって」
レイラがちらりと横目でアルマークを見る。
「レイラの目標ってなんなんだい」
くっ、と小さな声をあげてレイラは笑った。
「あなた、今の私にそれを聞くの」
「ごめん」
アルマークはまた謝る。
「でも、聞いてみたくて。今の君をここまで追い詰めてる君の目標って一体なんなのか」
アルマークは海を見つめながら、そう言葉を繋げる。
しばらくの沈黙。
波の音と海鳥の鳴き声だけが二人を包む。
アルマークはあえて言葉を継がず、待った。
「……フォレッタの高位魔術師試験」
ややあって、レイラは言った。
「聞いたことは?」
アルマークは首を振る。
フォレッタ王国は言わずと知れた中原の大国。レイラの母国であるロゴシャ王国はその隣国だ。
「でしょうね」
レイラは薄く笑う。
「子供が受けるような試験じゃないから。一番若くして受かった人でも、この学院の高等部の卒業生で18歳。普通は20代後半から30代……それ以上の年齢で受け続ける人もいる」
父は、とレイラが言う。
「その試験に成人するまでに受かれって。そうでなければやめて帰ってこいって」
「成人するまで? 中原や南の成人って確か」
アルマークは思わずレイラの顔を見た。
「そう。15歳」
レイラは表情を変えずに頷く。
「それは……無茶だ」
アルマークは首をかしげる。
「なぜ、君のお父さんはそんなことを」
「父は私がここに来ることに反対だった。学院長から直筆の手紙が来て、ようやく入学だけは認めてくれたけれど、その時に父の出した条件が、それ」
レイラは口許に笑みを浮かべていた。
「父とはそれ以来まともに話していないわ。私も家の人間に学院に入ってきてほしくないから、帰るときも港に使用人を待たせたり」
その姿は、アルマークも見かけていた。
「うちは没落しかけの家だから」
レイラは自嘲ぎみに言う。
「仕方ないのよ、私は一人娘だし」
突き放したようにそう言う。
アルマークは、口を開こうとしたが、レイラが先に言葉を続けた。
「父は使いたいの。私のことを、政略結婚の道具に」
レイラの言葉はあくまで他人事のようだ。
「良い婿がほしいの。それには18歳までなんて待つことはできないってことなんでしょ」
ひどく生々しい話だった。
アルマークは首を振る。
「たった三年の違いじゃないか。それに、君なら間違いなく立派な魔術師になれる。家の再興だって、きっと。お父さんはそれじゃダメなのかい」
「父は、ダメなんでしょうね。現実にどうか、じゃない。自分がどう思うか。父にとってはそれが全てだから。だからそんな無理難題を出したの」
レイラは海から目を離さない。表情は穏やかだが、その目は厳しかった。
「でも、君はそれを無理難題にするつもりはないんだろ?」
「まあね」
レイラは頷く。
「初等部で習うことなんて、もう全部独学で済ませたわ。今は中等部の二年目くらいの内容を学んでいる」
「ああ……それで」
アルマークは試験前のレイラの姿を思い出す。
必要なことは授業中に全部覚えている。そう嘯いていたレイラ。
それもそのはず、レイラにとって初等部の授業は全て復習に過ぎなかったのか。
「本気で初等部の内容だけを勉強すれば学年で1位でも2位でも取れると思うけど、私にとってそれは意味のないこと。そんな時間があるなら、もっと上のことを勉強したい」
その言葉にアルマークは頷く。
「だけど、そんな君が、武術大会ではロズフィリアに絶対に負けたくないと言った。それはなぜなんだい」
「ロズフィリアは……」
レイラの目に少し暗い影が差す。
「フォレッタの大貴族の娘。あの子は高等部卒業後すぐの高位魔術師試験合格を目指してる」
だから、とレイラは呟く。
「あの子には負けたくない。たとえ武術であろうとも。私はあの子より三年は先に進んでいないといけないから」
圧倒的に勝たなければならなかった。
それなのに、負けてしまった。それも、格の違いをはっきりと見せつけられる形で。
ただ、大会で負けてしまったからではない。
ロズフィリアに負けたこと。それこそが、レイラの心を深くえぐったのだ。
アルマークがようやく合点すると、レイラは小さく首を振った。
「アルマーク、あなたにはきっと色々なことが見えている」
そう言って、レイラは初めてアルマークの顔を見た。
「私とロズフィリアの違いは何。私には、何が足りないの」
アルマークを見つめるレイラの目は真剣そのものだった。しかし、今にも崩れ落ちてしまいそうな危うさがあった。
アルマークは暫しその目を見つめ、それから、ごめん、と言ってゆっくりと首を横に振る。
「僕は、魔法のことはまだほとんど何も知らない。その試験のことも今、君に聞いて初めて知ったくらいだ。僕には君に何が足りないのかは分からない」
その答えにレイラが失望したような表情を見せる。
アルマークはそれに構わず、でも、と言ってゆっくりと海に目をやる。
「レイラは、メノーバー海峡って知ってるかい」
「メノーバー海峡?」
突然の質問にレイラが怪訝な顔をする。
「知ってるわよ。北と中原を隔てる海峡の名前でしょ? もちろん、見たことはないけれど」
「うん」
アルマークは頷く。
「水龍海峡って別名もある、船の墓場みたいな海峡さ。毎日、黒い海に灰色の波が立って、あちこちで渦が巻いている」
僕はそこを越えてきた、とアルマークは言った。
「この海とは全然違う」
そう言って、アルマークは両手を広げ、穏やかな眼前の青い海を示す。
「僕が生まれて初めて見た海は、メノーバー海峡だった。いつも波や渦や岩が怪物みたいに口を開けていて、船乗りはそれに食われないように必死に船を操る。海ってそういうものだと思っていた。だから、この南の海を見て驚いた。同じ海とは思えなかった」
レイラは、一体何を言い出したのか、という顔でアルマークを見ている。
「レイラ、今君はこの南の海を見ているのに、まるでメノーバー海峡を見ているみたいだった」
アルマークはレイラの顔を見た。
いつも横顔ばかりの美しい顔が、今はまっすぐにアルマークに向けられていた。
「目の前の海はこんなに青く穏やかなのに、君の目には逆巻く黒い海峡が見えていた」
レイラは虚をつかれたような顔をした。
「イルミス先生は、魔術師はありのままを見る、と言っていたよ」
アルマークの言葉に、レイラは暫し沈黙した。
黙って穏やかな海を見つめる。
海鳥の鳴き声。
やがて、レイラは首を振った。
「よく分からないわ」
「ごめん」
「いいのよ」
レイラはそう言って、海に背を向ける。
長い髪が風になびく。
「でも、話を聞いてくれてありがとう」
レイラはそう言うと、そのまま振り返ることなく、ゆっくりと歩き去っていった。
アルマークが振り返ると、その背中に少しだけ、柔らかさが宿っているように見えた。




