(閑話)池の主
遠くから太鼓の音が響いてくる。
どこかで戦が始まったのか。
そんな筈はないか、と少年は首を振る。
もうメノーバー海峡を越えたのはずいぶんと前のことだ。
あれから一度も戦場になど出くわしたことはないじゃないか。
それなのに、太鼓の音を聞くと戦場を連想してしまう。
北は毎日が戦場のような場所だったから。
それが当たり前だと思っていた。
しかし、今の少年には分かる。
あれは、祭りだ。
少年は道の先を見はるかす。
きらきらと日の光を反射して光る、澄んだ池のほとり。
そこに賑やかな広場が見える。
櫓が組まれ、大勢の大人達が集まっている。
その周りを走り回る、少年と同じ年くらいの子供達。
北ではついぞ見られなかった平和な光景。
少年はちらりと空に目をやる。
日はまだ高い。
しかし、大きな街道から逸れて人気のない道を歩き続けて何日も経つ。
よし。今日は、ここに泊まろう。
そう決めて、少年は足を早めた。
結局、何がこんなことになった直接の原因なのか、ときれいに澄んだ池を見ながら少年は考える。
考えても詮ないことと知りながらも。
少年が広場に近付いたときに、向こうから走ってきた少女が目の前で転んだ。それに手を差し出したのがいけなかったのか。
だって、分かるはずがないじゃないか。
その子が自分の後ろに隠れて、それを追いかけてきた男達に囲まれるはめになるなんて。
男達に向かって、嫌がってるよ、というようなことを言ったのは覚えている。それがいけなかったのか。
だって仕方ないじゃないか。少女が震えているのが背中越しに分かってしまったのだから。
乱暴に伸ばされた男の一人の手を払いのけたとき、その顔が醜く歪んだのが見えた。そこでやめておけばよかったのか。
でもその時にはもう殺気だった男達の手が四方から伸びていた。
掴まれまいとして、手と足が出た。思わぬ反撃にますます男達が殺気だった。
誰かが、おいこのガキ、こんな長い剣を持ってやがる、と言った。
そこで剣を抜いたのがまずかったのか。
だってやむを得ないじゃないか。そうしなければ捕まっていた。
男達が怯んだのを見て、少年は少女の手を取って走った。少女は意外にしっかりとした口調で、そっちに曲がって、ここを右、と少年を導いた。
道はいつしか獣道のようになり、気付いたときには、少年は池の反対側に出ていた。
大人は知らない抜け道なの、と少女は言った。
少年はそこで初めて少女の口から、彼女が何故追われていたのかを聞かされた。
少女は、この池の主に捧げられる供物だった。
数年に一度、年頃の少女が生け贄に選ばれる。
少女はそれに選ばれてしまった。
今日は彼女を捧げるための祭りだったのだ。
供物に逃げられて主を怒らせたら、街に災厄が降りかかる。
それを恐れた街の男達が少女を追ってきたのだった。
少年は男達の醜く歪んだ顔を思い出す。
あれは怒りではなかった。
恐怖に怯える表情だった。
あなたに迷惑をかけてしまった、と少女は謝罪した。
少年は、いや、と首を振った。
僕がいいことをしたのだと分かって良かった。
その言葉が意外だったようで、少女は驚いたように少年を見た。
そこで少女と別れていればよかったのか。
そんなわけにはいかないだろう。
だって、女の子一人をほっておけないじゃないか。
少年は澄んだ池を見た。
こんなきれいな池に住む主が、そんな生け贄なんて欲しがるのかい。
少年の問いに、少女は俯く。
私もよく分からない。でも、街の人はそう言っていた。
少年は、主の姿を少女に尋ねる。少女は自信なさげに答える。
私も見たことはないから。聞いた話では、大きな蛇のような姿だって。
その言葉に少年の目が煌めく。
さっきまでの困惑した瞳が嘘のように、少年の目が力を取り戻す。
もっとよく教えて。
少女は戸惑いながらも、少年の求めるままに自分の知る限りの話を伝える。
なんだ。
聞き終えた後、少年は微笑んだ。
そいつなら、僕は知ってる。
そう言って立ち上がる。
大丈夫。父さん達と狩ったことがある。
少女はますます戸惑って少年を見た。
自分よりも少し年下くらいの少年。
背だってそんなに高くない。
なのに、この子の発する「大丈夫」。
それがなぜ、こんなにも頼もしく響くのか。
舟はある?
少年は尋ねる。
池に出たいんだ。
この時期は、と少女が首を振る。
池に出てはいけないの。主が怒るから。
でも、舟はあるんだよね。
少年の言葉に、少女は渋々頷く。
池のほとりに、打ち捨てられたような古い小舟が一艘あった。
まだ浸水はしていないようだ。
少年は心配顔で止める少女に手を振って、池に出た。
少年の舟が池の真ん中あたりに達すると、対岸の広場からもそれが見えたようで、さっきのガキだ、と男達の騒ぐ声が聞こえてきた。
やめろ、戻れ、と叫んでいる。
少年は池の中央に舟を浮かべて、しばらく待った。
不意に、水面が泡立ち盛り上がった。
顔を出したのは、大きな蛇に似た魔物。しかし、顔は人間のそれだ。水に濡れた長い髪の毛が魔物の顔を覆っている。
広場のほうから悲鳴が聞こえる。逃げ出そうとする慌ただしい足音。
魔物は、口を開いた。
生け贄にしては生意気な面構えぞ。
少年はそれら一切に構わず、剣を抜いた。
鍛え上げられた金属が、日の光を受けて鈍い光を放つ。
ほう。我を殺す気か。それが汝の答えか。汝にそれができるのか。
魔物がからかうように言ったが、少年は答えない。
勇気ある者よ。汝の名を聞いておこう。
答えの代わりに、少年が舟から跳躍した。
魔物と舟の距離はかなりあった。だが少年はそれをものともせずに魔物の胴に飛び付いた。
少年の胴回りくらいの太さのある魔物の胴に、ためらうことなく剣を突き刺す。
剣は固い鱗を易々と貫いた。
魔物が呪いの言葉を吐きながら激しく身をよじる。
少年は刺した剣を一息に引き抜くと、魔物の胴を蹴ってさらに跳んだ。
少年が剣を振りかざしたその先には、魔物の顔があった。
澄んだ池の水を赤く染めて、魔物がゆっくりと沈んでいく。
少年は危なっかしく揺れていた小舟になんとか戻ると、自分の身体を引き上げた。
喘ぎながら座り込むと、先ほどの少女と目が合った。
少女は舟から少し離れた水面に立っていた。
少年は、少女を見て穏やかに微笑んだ。
僕は、北を旅してきたから、嘘をつかれるのには慣れてる。
少年は言った。
君は、嘘が下手だ。
少女はその言葉に、困ったように微笑んで見せる。
少年は水底へ沈んでいった魔物のほうをちらりと見た。
澄んだ水の底に、もうその姿は見えない。
あいつの言葉に答えてはいけないんだ。
少年は言った。
答えると、心を掴まれる。あいつが怖くてたまらなくなる。あの大人達のように。
髪からポタポタと水を滴らせながら、少年は広場に顔を向ける。
広場はさっきまでの喧騒が嘘のように静まり返っていた。
少女は何も言わず、少年を見つめている。
少年はもう一度少女を見て、言った。
それさえ気を付ければ、そんなに怖い相手じゃない。
少女は水面をゆっくりと、まるで地面のように歩いて、少年の目の前までやって来た。
少年は微笑んで、言う。
池の主は、君だ。
その言葉に、少女ははにかんだように小さく頷いた。
ごめんなさい、嘘をついて。あなたは信頼できそうな人に見えたけど、会ったばかりでまだ信じきることができなかったの。それに、まさかこんなに強いとは思わなかった。
ゆっくりと姿を消していく少女に名を尋ねられ、少年は、アルマーク、と短く答えた。
ありがとう、アルマーク。あなたの旅の果てに大きな喜びがありますように。
少女は最後にそう言って、微笑んだ。
少年はゆっくりと舟を広場に向ける。
今日はここに泊めてもらえるだろうか。
目下、それが彼の心配事であった。




