老いと創作と私
若いときは、物語が無限に沸いてきていました。
おそらく一般的な作家さんより知識は薄く、人生経験もそれほど豊富ではなかったけれど、頭の中は常にとっ散らかって、たえず何かを妄想していました。逆にいえばそれがあたりまえでそういうものだと思っていました。
web小説を書いているような方は、プロアマを問わず、多分そういうひとが多いでしょう。ひとつのワードを聞くと関連のない事象が芋づるのように湧いてきたり、頭の中で、いくつもの人間の声が聞こえドラマを繰り広げるという、一歩間違うとやばい奴扱いされるようなことが『当たり前』だと感じているはず。
計算して書くひと、感覚で書くひとの違いで、妄想の仕方、組み立て方はそれぞれ違うとは思います。私はどちらかといえば後者なので余計そう感じているのかもしれません。
それが常のことであったので、そうではない状態というのをあまり想像ができておりませんでした。
ところがです。
二年ほど前から、『書けない』『思いつかない』という大スランプに陥りました。細々とは書き続けていましたが、全然思ったようにストーリーが紡いでいけない。
ちょうど人生五十年の節目あたりということで、「もう若い人にはかなわない」「老兵は消え去るのみ」というセリフを呟いてみたり。
世の中には、私よりずっと年上でも面白い物語を書くひとはたくさんいらっしゃって、年を理由にするのは「ただの逃げ」ではあるのですが、私は引退すべきなのかもしれないなどと薄々考えたりもしました。
ぶっちゃけいえば、そこまで書けなくなっていたのは、バセドウ病という病を発病していたからでした。
バセドウ病については、一年ほど前に別エッセイを書きましたので、興味がある方はそちらをお読みください。
ちなみにバセドウ病になると『小説が書けなくなる』という症例はたぶん報告されていないと思います。ゆえにエビデンスはないです。あくまで私の話ということでご承知おきください。
バセドウ病になると代謝が異常に良くなるため、平均脈拍が非常に早くなります。今の私は70くらいですが、一年前は90~100が平均であり、日常が常に『有酸素運動』時。つまり毎日、持久走状態でした。
そんな状態で考えがまとまらないのは当たり前と言えば当たり前ですね。
当然、集中力も欠きますし、常にイライラしているような状態なので、日常生活を送る判断力も鈍っていたのですから創作どころではありませんでした。
ただ、脈が投薬によって落ち着き始めてくると、どうやらそれだけではないぞ、と気づき始めました。
体力は精神活動の源。
体力が戻ってくると、それなりに空想はできるようにはなってきたけれど、昔の自分はもっといろんなことが頭にあふれていたなあと思うようになりました。
原因はいくつか考えられます。
①実生活の悩みの変化
十代のころに比べて、今の自分が悩んでいないかといえば、そんなことはありません。ただ、悩みの質が違います。将来に悩むのでも、希望や夢がまじる若人と違い、体力の衰え、老後の生活という、『いかに土に還るか』『どうやって生にしがみつくか』みたいな面があって、考えて楽しくはあまりありません。もちろんそれはそれで創作のネタにはなるのですが、私が書きたいのはそんな話ではないのは確か。
それから子供の将来などの家族に関しての悩みは、その悩みはストレスになっても活力にはなりにくいです。『○○するために○○しよう』という気力は空回りしがち。もちろんそうした他者との関係による経験も創作のファクターにはなりますので悩みそのものは変わっても、創作にそこまで強い影響というのはない気も致します。ただ書けるジャンル変化はあるのかもしれません。
②テレビから動画サイト、サブスクへの変化
家にテレビはあっても、あまりテレビ番組を見なくなった方は結構いらっしゃるのではないでしょうか。
動画にも生配信などありますけれど、基本は好きな時間に見られるし、芋づる式に関連した動画が紹介されたりするため、テレビ番組を録画するよりお手軽。アニメやドラマを見るにしろ、サブスクで見る方がCMの数が圧倒的に少ないし、それこそスポーツ中継が延長になっていて録画失敗なんてこともない。これは非常にありがたいことです。
ただ、最近感じているのは、そのせいで興味のないものには全くふれる機会がなくなってきたということ。それはノンストレスではあるのですが、たとえば、テレビ番組では見たくもない番組の番宣があったりするので、自分がアンテナを張っていない情報も多少紛れ込んで入ってきます。
学校の勉強と同じで、創作は自分がどうでもいいと思っている情報も脳の片隅に放り込んでおくということが実は大切なのではと感じております。
小説のハウツー本などにも新聞を読みましょうみたいなことがありますが、結局は興味のない情報も頭に入れろということなのかも。インターネット社会になると、ニュースも取捨選択して読むので(もちろん新聞でも読む、読まないはあるのですが)自分にいらないものは頭に入れなくなってきております。
これは、たぶん創作者としては、あまりよくない気がします。
③老眼
実はこれが大本命。
薄っぺらな人生、薄っぺらな知識の私にとって、今までフィクションを取り込むこと、それこそが創作にとって重要でした。
本を読むにも、何かを見るにも、とにかく視覚情報が多いわけです。
昔は四六時中文字を読んだり書いたりしても平気だったのに、すぐに目が疲れてくる。これが非常につらい。
もう、昔の早〇書房の翻訳SFは読めないです。小さい文字で行間びっしりなんて、読む前から疲れてしまう。昔は一ページの情報量の多さが超お得に感じたものなのに。
SNSを読むのも控えるようになりました。ゆえにフィクションをはじめとする視覚情報からの摂取経験(疑似体験ですが)が圧倒的に減っています。
余談ですが。
同年代の友人と話をして気づいたのですが、私と違って全然漫画を読んだりしないらしい……まじか。
たぶんラノベもほぼ読まない。ゲームもしない。
同じように老眼に悩んでいるみたいだけれど。
まあ、私の世代は漫画やアニメはいずれ卒業していくものなんて認識を植え付けられていた世代なので、不思議ではないのですが。
結論から言うと、以前に比べて、脳内が非常に昔に比べて静かなのですね。
とっ散らかるほど頭に入っていたフィクションの量が減っているわけですから当たり前です。減るって言うのはおかしいかな。記憶をすべて忘れてしまっていくわけではないので。ただ、古い記憶って言うのは、たぶん、それなりに整理されて収納されていくわけで、散らかりはしないわけです。創作においては散らかるのが大事なのではないでしょうか。
創作は脳内に散らかったいろいろなものを『再構成』して創造するもの。たとえば、『人喰いリンゴの逆襲』という話を思いついたとしましょう。
ある村にあったリンゴの木。農村をほろぼした王がその村に現れた時、リンゴの木は報復を誓い、美味しい果実を実らせ、その腹の中から人を喰らい始める……
まあ、なんなんだこの話はって感じですみません。
これを構成するネタは、よくあるホラー的な話と、恩返し的なお話、昨日スーパーで試食したリンゴの記憶などがごっちゃになっています。
実はこんなしょうもない『思いつき』ともいえないしょーもない発想も、昨年はあまり浮かばなくなっておりました。体力不足と気力不足でフィクションから遠ざかっていたせいではないかなと思います。
最近は、ようやく脳が散らかるくらいにフィクションが貯まってきた感じがします。
ただ、気力不足で漫画ばっかり読んでいたせいで、文章が不足していました。つまり妄想はできるようになってきたのに、文章が思いつかなくなっていることに気づいて、積読の本を読み始めました。
文字を脳内に入れると、文章を書きたくなってエッセイを書き始めたという次第。我ながら現金です。
結局のところ、小説を書くというのは、何らかの刺激、経験(フィクションを含む)を喰らっていないと書けないいうことなのでしょう。
とはいえ、若返ることはできないので。これから注意したいことをいくつか。
①疲れ目注意
目を酷使し続けない。朗読などからフィクションを得る方法も考えるべきかも。疲れ目用目薬と、ホットアイマスクは常備する。
②体力をつける。
健康第一。集中力の持続にもつながるので。
③テレビの放送モニターをはじめた。
興味のないものを強制的に見ることで、何かが得られる……ような気がする。(少なくとも報酬が多少ある)
というわけで。
人はいつか老いるもの。
まだまだ他人事である方も、共感していただける方も、お互い生きている限り小説を書き続けられるといいですね。
空想癖に悩まされない自分というのも体感し、実生活と自分だけの自分……というのも変ですが、そういう生活はある意味静かではあるのですが、やっぱり人生最後まで、変なことを妄想し続ける自分でありたいです。
もちろん、物語が浮かばないという状態が一般的には『普通』なのかもしれませんけれど。




