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二時間目 「見えちゃうから」

 

「ええ? 今日もするのかい」

 六年二組担任の夏目先生はそう言いつつも、どことなく嬉しそうだ。

 国語の時間。思いの外、教科書が速く進んでしまった。4時間。また男子が怖い話を夏目先生にねだった。

「うーん。まあ、確かにやることも特にないしなあ」

 その一言にクラスは歓声を上げる。下手すれば漢字プリントでもさせられかねない雰囲気だったので、それはもう大喜びだ。

「いいか。あくまでもうわさ話だぞ」

 そう言って、夏目先生はにやりと笑った。


 これは先生が大学生の時に、友達から聞いた話だ。

 大学の授業ってものは小学校とは全然システムが違う。自分で受けたい授業を選べるんだ。うらやましいかい? でも、受けるならちゃんと単位ってものをもらわなきゃいけないんだ。ちゃんと勉強したかのポイントみたいなものだ。そのポイントがある程度たまらないと、卒業できない。

 授業は難しいか?

 うーん。その講義によるね。難しい試験に合格しないといけない授業もあれば、座ってるだけで単位がもらえちゃう授業もあるよ。

 先生の友達のCくんが受けていた授業は楽な授業だった。

 本当に座って、最後にちょっと授業の感想を書いたら単位がもらえるような授業。Cくんは卒業も近くなってきていたので、とりあえず単位の水増し目的だけに適当にその授業を受講していたんだ。特に友達で受講している子もいなかったので、本当に寝るだけのために教室に行ってたらしい。うん。悪い子だね。でも、そんな大学生はいっぱいいるんだ。みんなはならないでね。

 まあ、Cくんはそんな感じだから講義内容なんてまともに聞く気がなかった。となるとできるだけ教室の後ろ側で、できれば壁際に行きたかった。壁にもたれると寝やすいからね。

 数十人規模の受講数だったんだけど、教室は結構小さくて、特に席に余裕がある感じじゃなかった。考える事はみんな同じなようで、講義開始前になると、後ろの席と、壁側の席からオセロの戦略みたいに次々と埋まっていった。出入り口のドアが教室の後部にあることも、後ろの席が人気な要因になっていた。

 Cくんはその講義の前のコマは空きコマだったから、十五分前には教室に行って、最後尾の壁際を確保することにしてた。

 みんなは前のコマには講義が入っているのか、五分前ぐらいにどっと入ってくる感じなので、十五分前だとまだ教室はがら空き状態、今日の寝床を選び放題だった。

 そんな事をしていると、何週目だったか、Cくんと同じようなことをしている女の人がいることに気がついた。

 Cくんと違い、前のコマに講義が入っているのだろうか。いつもうつむき加減のその女の人は、講義開始十分前ぐらいに息を切らして早足で入ってくる。そしてちょくちょく埋まりかけている席の中から必ず壁際を選択して座っていた。

 ある時には、「あそこ座ろうよ」的な感じで席に向かっているカップルをうつむいたまま無言で押しのけるようにすべりこんで、無理矢理に席を取った時もあった。カップルはあからさまにむっとしてたって。当然だよね。

 Cくんはそんな彼女を見て、たいした情熱だなあ、そんなに寝たいのか。わかるぞその気持ち。と、勝手に親近感を抱いてたらしいよ。

 だけどある日、Cくんはその女の人の目的が寝ることではないことに気がついた。

 その日、講義中盤にうとうとしながらその女の人を見ると、女の人はCくんと同じく完全に壁にもたれかかっているにもかかわらず、せかせかと手を動かしてノートをとっていたんだ。

 側頭部、つまり頭の片側を完全に壁にひっつけている状態で、手だけはせかせかと動いているもんで、すこし異様な姿勢になっていたんだって。

 その日から俄然気になってきて、Cくんは毎回その女の人の席取りを観察するようになった。

 すると、彼女にはCくんの席取りとは違う基準・・・・・・決まり? まあルールがあることがわかった。


 一、その女の人は別に後ろの席でなくともよい。

 Cくんはなるべく教室の後ろの席を確保しようとする。講師から距離をとった方が気持ちよく寝れるからね。彼女は前後関係に特にこだわりはないようで、たとえ後ろがあいていても、前の方の壁際を選ぶこともあり、時には最前列の壁際をとることもあった。


 二、必ず左側の壁際に座る。

 これはかなり後になって気がついたらしいんだけど、彼女は必ず教室左側の壁にもたれて座っていた。例外はなかった。教室に入ってきた段階で、どれだけ右側がすいていようとも、まっすぐ左の壁際に向かっていた。


 寝もしないのに何でそんなに左の壁際にこだわるのか、Cくんはどんどん興味がわいてきた。そもそもいつも最後尾にいるCくんからは、彼女の顔もろくに見えていない。何度かのぞき込もうとしたが、彼女が通りすがるときに盗み見ようと試みたが、彼女はうつむいているし、それにやたら早足なのでいつも長い前髪しか見えなかった。

 講義の最終日、最後に一度、顔をおがんでやろうと、なんなら左側に座る理由を、面と向かって聞いてやろうとCくんは思ったんだって。

 その日、あえて前方の左の壁の席に座り、彼女を待った。教室後方のドアから入ってきた彼女を確認したCくんは、彼女が背後に来た瞬間に通路に出て、彼女の前に立ち塞がった。うつむいたまま、びくりと動きを止めた彼女に

「あのさ、思ってたんだけど、なんでいつも左側座るの?ww」

 みたいな感じで、絡むように声を掛けた。

 彼女は突然話しかけられて驚いたように顔を上げた。

 で、Cくんは後悔した。


 顔面神経麻痺というのかな。

 彼女の顔の左側はまるで力んでいるようにゆがんでおり、極端に左目が細くなって、その反動かのように右目はかっと開いていた。左目が閉じてしまっている影響か、左の口元というか、えくぼができる箇所の皮膚も力んでゆがんでおり、少しピクピクと痙攣していた。

 一目見ただけで理解した。

 彼女がいつもうつむき加減で、必ず左の壁際をとる理由が。

 彼女はただ、このゆがんだ顔の左側を、みんなに見られたくなかったのだ。


 Cくんは自分のしょうもない好奇心で人の隠したがっていることをのぞき込んだことに重い罪悪感を感じ、そんな自分の性根に嫌気がさした。

 とりあえず謝って席に着きたかったが、この場で謝罪するのも正解なのかわからない。

 絡んだだけ絡んで突っ立って固まっているCくんに、彼女がぼそりと言った。

「・・・・・・見えちゃうから」

 少し時間がたってから、それがCくんの質問に対しての答えだとわかり、「あ、そっか」と間の抜けた声を出したCくんは、「ごめん、邪魔して」と自分の席に戻った。 

 罪悪感と猛烈な後悔に押しつぶされそうになっていたCくんは席に着くなり、机に突っ伏して狸寝入りをきめた。

 彼女はしばらく通路で動きを止めていた様子だったが、しばらくしてCくんの真後ろの席に座ったのが気配でわかった。壁に顔の左側を押しつける鈍い音が聞こえた。

 講義が始まり、講師の声が聞こえ始める。

 時間がたてば立つほど、彼女に対して行った非礼への罪悪感が増していった。

 講義が中盤に入った時、Cくんはもう一度、もう一言ちゃんと謝っておきたいと言う気持ちが抑えきれなくなった。

 Cくんはなけなしの勇気をふりしぼって顔をい上げると、ひと思いに振り返った。

 そこでCくんは再び戦慄したんだって。

 彼女の顔には何のゆがみもなかったから。

 両の目をごく自然に開いた、しわ一つない色白の顔が、Cくんを見つめていた。

 顔の左側を壁に押しつけて。

「え、顔・・・・・・」

 思わずそう漏らしたCくんを彼女は怪訝そうに見てから、「ああ」と合点がいったような表情を見せてからまた小声でつぶやいた。

「こうしてれば見えないの」

 彼女は動きで説明するかのように、両目を開いたまま、よりより強く顔を壁に押しつけた。

「ちょっとでも隙間があると入ってきちゃうから・・・・・・・こうすると完全に見えなくなるの」

 講義終わりに席を立った彼女は、また左目を力いっぱいつむり、何かから逃げるように足早に教室を出て行ったんだって。




 チャイムが鳴った。四時間目が終わったのだ。

「さあ。みんな。給食だぞ。給食当番さんは用意して」

 ぽかんとしていた子ども達は我に返ったように動き出した。

「今日の献立なんだったっけ?」

「しゅうまい! 一人二個!」

 そんなことを口々に言いながら給食の準備をする。

 私は給食当番だったので、机の横にかけていた袋からエプロンを取り出し、身につける。

 そこで、我慢ならず、隣のアオイちゃんに振り返った。アオイちゃんも当番なので藍色のエプロンを身体に巻いている所だった。

「アオイちゃん。さっきの話、どういうこと?」

「え? そのまんまでしょ」

「ごめん。わからない」

 アオイちゃんは片方の眉を上げて私を見た。私が何がわからなかったのかがわからないに違いない。

「結局、なんで女の人は壁に顔を押しつけてたの? べつに病気とかじゃなかったって事でしょ」

「ああ」

 アオイちゃんは私の理解度をようやく把握したようで、ゆっくり、言い聞かせるように言った。

「つまりね、その女の人は、『見られる』ことではなく、『見てしまう』ことを恐れていたのよ」

「見てしまう?」

 アオイちゃんは頷いた。

「ええ。多分、常に何かが左側に見えるんでしょうね。だから、壁がない状態で歩いているときは、できるだけ見えないように左目をぎゅうっとつぶっていたから変な顔になっていたのよ」

 なるほど。

「何が見えてたんだろ。幽霊とかかな」

「さあね。でも、話の様子じゃ、見慣れてしまえるようなものじゃなかったてことでしょうね」

 アオイちゃんは給食の入った食缶を取りに行くためにスタスタ歩いて行ってしまった。


 私は、給食台をフキンで拭いている夏目先生のところに歩み寄った。

「夏目先生」

「うん? どうした七見さん」

 夏目先生はそう言いながら振り向かなかった。

 私は給食台をごしごしする振動でずり下がった先生の黒縁眼鏡を見つめながら言った。

「Cくんは、その女の人にはもう出会わなかったんですか?」

 夏目先生は手の動きを止めた。

「うん。なんでも、一度だけ、廊下で見かけたらしいよ」

 そしてようやく私を振り返った。

「彼女、大学の廊下の左端を、壁に肩をこすりつけるようにして早足で歩いていたって。それでも、左目はぎゅっとつぶってたらしい」

 それだけ言うと、夏目先生はまた台拭きを再開した。

 私はぺこりと頭を下げると、自分の担当の食缶を取りに行くために廊下を進んだ。

 すっと、廊下の左側に寄ってみる。

 肩をするぐらい顔を壁に近づける。顔と壁の間は数センチだ。

 この隙間にも入って来ちゃうんだ。

 彼女の左側には、いつも何がいるのだろう。それほどまでに見たくないものとは一体何なのだろうと、私は考えずにはいられなかった。





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