閑話1.村の救い主2
シャリーンは家政婦に連れられ、集会所へと向かう。
外に、見慣れない若い男が立っている。男は布で鼻と口元を覆っていた。夏場で、閉めきることのできない集会所からは、体臭や糞尿、毒の香りが混じった異様なにおいが風に乗ってきているからだ。村の連中も病人以外は、全員がそうしている。
その前に村長――シャリーンの祖父や、毒にやられていない男たちの姿があった。
馬を任された男衆が、手こずりながら驢馬舎に引っ張っていく。一時的にそちらにつないでおくらしい。
「ウェスから来てくださった、領主様の使いです。ドルフさんが伝えてくださったそうで、お薬の用意があるのですって。ああ、本当に良かったです。うちの息子も……」
家政婦の言葉を途中まで聞くなり、シャリーンの目の色が変わった。
馬の鞍に括りつけていたのだろう大きな革袋を、若い男が手にしている。薬屋によく並んでいたような瓶が、その中に見えた。まるで陽射しに輝くように見えていた。
人の群れの中心に、シャリーンは怯まずに飛び込んでいく。自分のどこにこんな体力が残っていたのか、不思議に思うくらいに身体が動いた。
「おじいちゃん。あたしの分は?」
息を荒らげて手を出すシャリーンに、年老いた祖父は躊躇うような顔をした。
ちらりと男のほうを見る。男は何も言わず、祖父を見返した。
「体力のない老人を優先させることになった。シャリーンは、しばらく我慢なさい。命を奪うような毒ではないというから」
「……え?」
シャリーンは愕然とした。いつも祖父はシャリーンのことを優先してくれたのに、男の目を気にして断ったと分かったからだ。
「おじいちゃん」
シャリーンは食い下がろうとした。細い腕の伸びる袖を掴もうとすると、祖父が苛立たしげに白い眉を寄せる。あからさまに煙たがられるのは初めてで、シャリーンは困惑した。
「ご安心ください。二日後の昼には、全員分の薬を積んだ荷馬車が着きますから」
男はそう言うが、安心できる要素などひとつもない。しかしその場はしぶしぶでも、納得するしかなかった。周りの男たちが、こちらをじっと見ていたからだ。
それからの数十時間は、シャリーンにとっては地獄に等しかった。
すでに、二十人ほどの老人たちは回復の兆しが見えているという。村の雰囲気も少しずつ明るくなっていると家政婦に聞かされても、虫唾が走るだけだった。
(年寄り連中なんて、助けが来る前に死んじゃえば良かったのに)
シャリーンは村長の孫だ。それに若く美しくて、未来のあるシャリーンではなく、どうして醜く老いた老人たちが優先されるのか。
自分はなんて不幸なのだろうと、シャリーンは何度も泣いてしまった。しかし外に聞こえるように泣き声を上げても、誰も自分の分の薬を譲りには来なかった。
――ちょうど二日後、荷馬車がアコ村に到着した。
気力を振り絞って、シャリーンは集会所の前へと歩いて行った。誰かが届けに来るのを待つより、そのほうがよっぽど早いと思ったからだ。
村人たちに遠巻きにされて、細身の青年が立っている。一目見るなり、シャリーンは胸の高鳴りを感じた。
(素敵な人……)
茶色い髪に、素朴ではあるが柔和な顔立ちが、目元だけでも窺える。身なりも立ち居振る舞いも洗練されていて、アコ村の男とは比べものにならない。粗暴な田舎者たちとは、まるで大違いだった。
使いの中で、最も身分が高いのだろう。彼が指示を出すと、何人もの男たちが荷馬車から荷を下ろしていく。
村人たちが歓声を上げた。木箱にたっぷりと詰まっているのは、どう見てもポーション瓶だったからだ。壺のようなものも見えるから、あれに残りの解毒薬も入っているのだろう。先日は、小さい革袋に取り分けて入れていたのだ。
(ポーションが、青いように見えるけど)
薬屋でドルフやクナが売っていたのは、黄緑色のポーションだった。しかしウェスの薬師が作ったのであれば、それよりもずっと効き目のある良いポーションなのだろう。
毒にやられていない男衆が、使いと協力して木箱を集会所に運び込む。看護師らしい中年女性たちも、覆いと手袋をつけて集会所に入っていく。その様子を横目に、シャリーンはふらふらと馬車へと近づいていく。
馬車の傍にドルフが突っ立っているのも、目に入らなかった。シャリーンはじっと、茶髪の男を見つめていた。目が合うと、問うような視線を返される。苦しいくらいに胸が騒いだ。
(名前を、聞かれるかも)
「患者は全員、集会所に集められているのでは?」
しかし男の口からは、温度のない確認の言葉が放たれただけだった。
シャリーンは驚いたが、垂れてきたクリーム色の髪を耳にかけて微笑んだ。
「それは……あたしは、別の場所で療養していたので」
「そうですか」
シャリーンが微笑んだというのに、返ってきたのは淡々とした相槌だ。
唖然とするシャリーンに、男が馬車の中を漁る。手には薬包紙と、ポーション瓶があった。
黄色い蓋を緩めて、ポーション瓶を渡される。
「発疹がひどいですね。苦しいでしょう、早くこちらを」
「……はい」
シャリーンはおずおずと、差し出された薬を受け取る。
まず薬包紙の粉薬を喉に流し込むと、苦い味が広がった。しかめっ面になりながら、シャリーンは瓶の縁に口をつける。
瓶を傾けた瞬間だった。
形容しがたい味の何かが、口の中いっぱいに広がって――耐えきれず、シャリーンは中身を噴き出していた。
「げ、ゴホッ……な、何よこれは!」
「見ての通り、ポーションですよ」
口のはしを涎のように、青い液が伝う。ごしごしと拭いながらもシャリーンは目を走らせる。誰かに水でも持ってきてもらおうと思ったのだが、周りに人が居ない。
飲み物とは思えないおぞましい味に、シャリーンは後ろを向いてごほごほと何度も咳き込む。しかし苦い粉薬がぴったりと舌の上に張りついていて、うええ、と全身を震わせてしまう。
「ポーション……って、こ、こんなの、泥か何かを詰めただけじゃないの。ふざけないで。どんな薬師が作ったら、こんなポーションになるのよ。クナのポーションだってもうちょっとまともだったわ」
口にしてから、ああ、あの黄色蓋のポーションはドルフの作ったものだったのだっけ、とシャリーンは思い出す。
(そういえばこのポーションも、黄色蓋だけど)
唐突に、男のまとう雰囲気が変わった。あからさまではないが、確かに、尖った針を向けられたような感覚がして、シャリーンはびくりと身を竦ませる。
「もちろん、飲まなくてもけっこうですよ。ただしその場合、いつまでもあなたは毒に蝕まれることになるでしょうが」
(――なんなの、この人)
なんて失礼な態度だろうか。
唖然としていた次には、シャリーンは激しい怒りを感じていた。口の中は苦くて気持ち悪いままだし、ちょっといいなと思った男は、シャリーンに対して無礼な言動ばかり取る。
一言、言ってやらねば気が済まない。男を睨みつけたシャリーンは、腕組みをして言ってやった。
「あなた、あたしを誰だと思ってるの? あたしはアコ村の村長の孫……」
「シャリーン!」
詰め寄ろうとしたシャリーンを、怒声が止める。
振り向くと、集会所から出てきた祖父が、怒りのにじむ形相をしている。力を入れすぎているのか、手にした杖がぶるぶると震えている。







