第71話.この街で生きていく
ウェスには、精肉店がいくつかある。
街を出て東のなだらかな街道沿いには、主に小麦や大麦の栽培地や田畑があり、西側の広大な草原では、牛や羊、豚といった家畜が飼われている。牧草地の片隅には大きなと畜場があり、解体された肉はウェスや、近隣の街に運ばれていく。精肉店が多いのも、ウェスに住む人々が魚より肉料理を好むのも、土地柄である。
店の軒先に張り出した屋根の下。クナは街の景色を眺めながら、自然と身体を揺らしている。
広場のほうから、旅芸人が笛や、弦を張った大きな梨のような形をした楽器を使い、演奏する音色が風に乗ってくる。知らない曲だけれど、耳に心地よく楽しい曲だ。日が燦々と降り注ぎ、朝から暑い日ではあるけれど、子どもたちは広場に集まり、休まず手を叩いている。
背を向けた店内からはじゅうじゅうと、熱い油がはねる音がしている。漂う肉の香りが食欲を刺激する。ヒョロロロ、と響く笛と共に、ひとつの音楽を奏でているかのようだった。
「ほい、クナちゃんお待たせ」
「おっちゃん、ありがとう」
「熱いから気をつけてな」
気の良い店主に五十ニェカを支払って、クナは薄紙に包まれた芋肉揚げを受け取った。忠告通りものすごく熱かったが、唇をむぎゅっと噛んで声を上げるのを我慢する。
(あっつい!)
とてもじゃないが握っていられない。すでに大量の油がしみている包みの隅っこを、クナは親指と人差し指でつまむようにして持つ。足元のロイが甘えた声を出している。かけらを恵めと言いたいらしい。
芋肉揚げは潰した芋と、挽肉を混ぜ合わせて、楕円の形に丸めて揚げた料理だ。
アコ村の生活では芋が主食だった。痩せた土でもよく育つありがたい野菜だが、もう芋はうんざりだ、と思ったことも一度や二度ではない。しかし、ウェスに来て知った揚げたての芋肉揚げは別である。
火傷に気をつけてかぶりつくと、油がじんわりと口の中に広がる。パンのかすをつけた茶色い衣はさくさくとしていて、この食感がまた堪らない。最近は露店を出しつつ、小腹が空いたら買いに行くのだが、やみつきになりつつあった。
ロイに絡みつかれて食べ歩きをしながら、クナが向かうのは領主邸だ。昨夜、わざわざリュカが宿屋の亭主に言付けてきた。イシュガルが呼んでいると言われれば、クナに断る理由はない。ちょうど今日は、薬草を採取しようと露店もお休みにしていた。
――四日前。
領主代行としてアルミンはウェスを出発し、アコ村へと旅立った。重病人が居た場合のため、一部は早馬で少量の薬を持ち先行し、荷馬車は二頭立ての立派なものが二台も用意された。
同行者には、看病に慣れた看護師だけでなく、ドルフも含まれていたようだ。一行はまだ、村には到着していないだろう。
日の光を反射して、きらきらと光る水路の横を通り、クナは領主邸へと着く。
クナを待っていたのか、正門扉の前に広がる庭園には、侍女に日傘を差されて佇む貴婦人の姿があった。初夏らしい衣装に身を包んだ女性は、イシュガルだった。
横にはリュカの姿がある。ロイが先に歩き出す。てらてらと油で光る唇を舐めて、クナも彼女らの傍に向かおうとした。
――が、すぐに気がつく。イシュガルは両目が見えないはずだ。それなのに、夏の花を楽しげに観賞し、リュカと談笑している。
足音に気がついたイシュガルがこちらを見やる。
彼女は見当違いのほうを見てはいなかった。クナと目が合っている。陽光の下で見るイシュガルは若々しく、美しい女性だった。化粧は薄いが、出会った頃よりずっと顔色が良い。
目元を和らげたイシュガルが、ゆっくりと近づいてくる。
「あなたが、クナさんね?」
「……はい」
「リュカちゃんに聞いていた通り。とても可愛らしいお嬢さんだわ」
後ろのリュカが狼狽えた顔をしている。何を吹き込んだのか少し気になる。
「クナさん、この通り……昨日からね。まだ、少しぼんやりしていて見えにくいのだけれど、両目とも見えるようになったのよ。本当に、ありがとう」
イシュガルに両手をぎゅうっと握られる。細くて白い手だ。目には涙がにじんでいて、まっすぐにクナを見ている。見覚えがあると思ったら、リュカの青い目とそっくりなのだった。
「それで、お礼のことなのだけれど」
リュカから何か聞いたのか、すぐさまイシュガルは報酬の話に移る。侍女が致し方なさそうに溜め息を吐いているが、クナとしてはありがたい。
「十万ニェカでどうかしら」
クナの目の色が変わる。それもそのはず、彼女は四日前にアルミンから渡された報酬を手に、指物屋で大枚をはたいている。露店で稼いだ貯金含めての四十五万ニェカ。平民にとってはとんでもない大金だ。その日の夜、さっそく調合の具合を確かめる最中に我に返ったりもしたが、後悔はない買い物だった。
だが、クナはおかげでほぼ無一文に戻っている。喉から手が出るほど金が必要なのだ。明日死ぬというほど困っているわけではないが、芋肉揚げに小エビやとうもろこしを入れられない程度には困っている。
「いや、でも」
クナは迷った。クナがイシュガルに処方したのは温湿布だ。高価な薬草も、魔力も使っていない。血行促進や疲労回復に効果的な薬草を入れ混ぜただけである。原価や手間暇の面から考えても、十万ニェカを受け取れるほどの品ではない。付加価値というにしても、無理があるのではないか。
(ポーションには固定相場、っていうのがあるらしいけど)
クナが今困っているのは、温湿布には固定相場などないということだ。
「不治の病、と言われたわたくしの目を治してくれたのだもの。それくらいのお礼は当然でしょう?」
「……うーん」
「百万ニェカでも支払う用意があるけれど」
「十万ニェカで」
イシュガルが微笑む。なんだかうまいこと乗せられた気がするクナだ。
そこでイシュガルがクナの肩に手をおいた。リュカに聞こえないようにだろう、耳元に顔を寄せて、ひっそりと囁いた。
「それと――リュカちゃんにいろいろ話してくれたんですってね」
「余計なことでしたか?」
いいえ、とイシュガルが首を振る。
「わたくし、本当はずっと思ってたの。リュカちゃんはこの家に居づらいんじゃないかって。それで、冒険者なんて危険な道を選ぼうとしてるのかもって」
「…………」
「たっぷりと時間があったから、たくさん話をしたの。そしたら、ぜんぜん違うってリュカちゃんに言われちゃった。やりたいと思って挑戦してることだから、見守っててほしいのですって。今後も怪我には気をつけるから、って」
過保護な母親と大志を抱く息子は、どうやら分かり合えたようだ。
家を出たというリュカは、今後も週に一度は領主邸に顔を見せると約束させられたらしい。
(これなら、イシュガルさんの症状は再発しないだろうな)
クナは薬師として安堵する。
先日のように、羨ましいとだけ思わなかったのは、きっと――血のつながった家族でなくとも、クナを心配してくれる人が居るのだと知ったからだ。
頷いたクナに、イシュガルが悪戯っぽく片目をつぶってくる。
「ね。クナさんも、リュカちゃんのことを見ててくれる?」
「いえ」
クナは考えるまでもなく、はっきりと否定する。
「リュカを眺めてる暇はありません。私も稼がないといけないので」
それにリュカを見ている時間があるならば、薬を調合していたい。
「……ふふっ」
イシュガルは少女のように笑い、クナの傍を離れた。
「少し待っていてね。報酬を持ってくるから」
そう言って踵を返す。使用人に運ばせるのではなく、自分で持ってくるつもりなのだろう。誰かの手を借りずに歩ける喜びに満ちた背中に、クナも嬉しくなった。
大したことをしたわけではない。それでも、役立てた。誰かの力になれたのだと思うと、胸に温かなものが広がっていくような気がした。
入れ替わるように近づいてきたリュカが、口を開く。
「クナ、村には戻らないよな?」
「頼まれても戻らないね」
どんなに大金を積まれても、クナが二度とアコ村の地を踏むことはないだろう。
うんうんと何度も顎を引いたリュカが、歯を見せてにっかりと笑う。
「クナがウェスに来てくれて良かった」
「うん」
今度は、頷くのに躊躇いはなかった。
きゃん、とロイが鳴く。夏の風にあおられる髪をおさえて振り返ると、花壇の周りを駆けている白い犬が目に入った。揺れ動く小さな頭に、緑色の葉っぱをつけている。
鏡はない。けれど、きっと今のクナは、少しは楽しそうに笑えている。
「私も、ここに来て良かった」
クナの意識は、森の中で芽生えた。
誰も頼るものはなく、森で生きていたら、マデリと出会って村に連れて行かれた。
今居るのは、そのどちらでもないところ。
それなのに胸の真ん中に、どっしりと実感が住み着いている。
――初めて、自分の足で辿り着いたこの場所で。
クナはこれからも、薬師として生きていく。







