第63話.罪人の村
千鳥足の冒険者たちが、裏口からふらふらと出て行く。
飲み屋と繋がる冒険者組合はとっくに閉まっていて、明かりが落とされていた。リュカが会計を済ませる間、クナはロイを連れて外に出た。消毒液用の酒精も、しっかりと購入して腕に抱えている。そう高いものではないので、もっと早く買えば良かったと思っていた。
ナディとガオンは、ひどい酔い方をしたセスに水を飲ませている。クナはほとんど酒を飲まなかった。消毒するのによく酒精を使っているので、酒のにおいにも慣れているのだが、少し外の空気を吸いたい気分だった。
街角から吹く風が、火照った頬を冷ましてくれる。
頭上には青みがかった双月と星々が、紺色の幕を張ったような夜空に輝いているた。
ふと、月明かりに照らし出される道辺に目を移すと、地べたに濃く伸びた影を見つけてクナは驚いた。
(……人?)
頭から身体を丸ごと包む外套はぼろぼろで、あちこちに黒ずんだ汚れのようなものがついている。顔は影になってよく見えないが、使い込んだ杖に、丸まった背中と長い髭からして、年老いた男のようだった。
彼の姿を見るなり、急にクナの世界から、音という音が消えた気がした。
店員が飲み代を計算する声。リュカが巾着を探る音。セスの呻き声。ランプに集まる蛾の羽音、ナディの溜め息……それらが何か薄い膜に隔てられたように、一気に遠ざかっていったのだ。
だがそのときのクナは、それをなぜだか不審には思わなかった。
(飲み屋では見なかったけど)
誰かに用事だろうか。老人に声をかけようか悩んでいると、
「白き聖なる獣を従えて現れる乙女は、闇に侵される人の世を救い、傷ついた人々を慈愛の腕で守り給う……」
彼が嗄れた声で、ぶつぶつと何かを呟いているのが聞こえた。
それはどこか不気味な様子だったが、ロイは怖じ気づくこともなく老人に近づいていく。ほう、と彼が息を吐き、微笑むような気配がした。
「おお、おお、聖獣様……まだ森にいらっしゃったのですね」
「クゥン」
「そうですか。聖女様と共にご降臨なされたのですね。老いぼれた身ですが、再び相まみえることができ、望外の喜びです」
「キャン!」
会話は成り立っているのだろうか。
老人の中では、きっとそうなのだろう。ロイを見るなり聖獣と呼んだ老人は、顔を上げてクナのほうを見た。
落ち窪んだ眼窩。どきりとクナの心臓がひとつ跳ねる。
「聖女様。あなたは呪われた民の村を、お救いになるのでしょうか。罪人だらけのあの村を」
「……罪人?」
アコ村のことだろうか。首を捻るクナに、老人が「ええ」と頷く。
「ずっとずっと前の王が、罪人を押し込んで作った村です。……聖女がこの地を去ったあとのことですがね。彼らの澱んだ心が聖なる地を呪い、生き物の死があふれる森に変えてしまうなどと、王は夢にも思わなかったのでしょうが」
杖を持つ日焼けした両手が、怒りを堪えるかのようにぶるぶると震えている。
(物語か何かの話か?)
先ほどまで、樽に跨がった男たちは楽しそうに冒険活劇を語っていた。
老人が口にしたのもそのひとつかとクナは思ったが、それにしては、現実と一致している部分もある。
(だとしたらこの人、何歳?)
当たり前の疑問が頭に浮かんでくるが、こちらの質問を訊いてくれる雰囲気ではない。
底光りする両の目が、じっとクナを見つめている。威圧感はないのに、何かを試されているように感じる。
しかし、クナは正直に答えるしかなかった。そもそも求められている答えが分かったとして、思ってもないことを口にするのはクナには苦痛でしかない。
「客が罪人だろうと、聖人だろうと、料金を払うなら薬は売る」
「…………」
「それに依頼された薬はもう作った。でも、落石があるから薬を届ける手段がない」
「落石など、そんなもの、」
老人が何かを言おうとしたが、その前に裏口の戸がきいと開いた。
「クナ、待たせたな。……って、じいちゃん」
クナははっと振り向く。今の今まで、自分が飲み屋の前に立ち尽くしていることも失念していたのだ。
リュカはすぐに老人に気がついて近づいていった。どうやら旧知の仲らしい。クナにとってその老人は、どこか浮世離れした存在のように感じられたから、その骨張った肩をぽんぽんとリュカが叩くのを、不思議そうな目で眺めてしまう。
「じいちゃん、もう遅いから家まで送ってくよ。ガオンが」
「僕なんだ」
リュカの後ろから出てきたガオンが自分の顔を指している。
「オレはクナを送ってくし、セスはナディが……いや、ナディがセスを送ってくれるだろ?」
当然のように言う。
「私はロイが居るから大丈夫」
そもそもクナの宿泊している宿屋は同じ通り沿いだ。三十歩も歩けば着く。
それに老人が言うような、聖獣らしい振る舞いはほとんどしたことがないロイだけれど、クナにとっては頼れる獣だ。三十歩分くらいはクナを守ってくれるだろう。
「今日は楽しかった、ありがとう」
「うん。おれもだ!」
残念そうな顔をしていたリュカだが、ぶんぶんと元気に手を振ってくれる。
全員に別れを告げて、クナは宿屋へと戻る。受付には明かりがついているが、亭主の姿はなかった。
二階に上がり部屋のドアを空けたとたんに、とろとろと目蓋が下がってくる。腹が膨れているせいか、珍しくたくさんの人と話したせいか、眠たくて仕方がない。
「……湯浴みは朝でいいや」
「きゃん」
このまま寝たいくらいだったが、どうにか我慢して桶に水をもらってくる。
手拭いを浸して、顔と身体を拭く。ロイの足と腹も同じように拭いてやる。
楊枝で歯の間を掃除し、豚の毛で歯を磨くと、クナは口をそそいだ。寝間着に着替えて、覚束ない足取りで寝床に入ると、ロイもぴょんと寝台に飛び乗ってくる。
目を閉じると、水の中に沈むように、あっという間に意識が落ちていった。クナは逆らうことなく眠りの世界に誘われていった。
――そうして誰もが寝静まった夜。
クナは一度だけ目を開けた。
ぼんやりとした定かでない視界。何かが不自然で、クナは回らない頭を、ぐにゃぐにゃと粘土のように捏ねて動かした。
(あ……ロイが居ない)
毛布の上で寝息を立てていたはずのロイの姿がない。
闇の中に、ロイ、とクナは一度、呼びかけた。返事はなかった。
窓枠ががたんと軋む。どこか遠くのほうで、何か硬く大きなものが割れたような、砕けたような音がした。
その頃にはクナはまた目を閉じていた。







