第61話.夕の鐘が鳴って
カーン、カーン……。
遠くで、夕の鐘が鳴る。アコ村で毎日聴いていたのとは、少し音が違う。アコ村には小さな鐘楼があり、係の者が朝と昼、夜の三度、そこで緑青をふいた鐘を鳴らすのだが、その音は遠くまで響き渡りはしなかった。同じ村の住人たちに聞こえる程度の音量だった。
ウェスでは、教会に塔が建てられており、そこに吊るされた鐘が揺らされる。アコ村よりずっと高いところで揺れる鐘の音は、そのぶん、遠くまで伝わる。だがアコ村までは届かない。それほどに間を阻む森は大きく険しい。
顔を上げたクナは、窓の外を見た。夕焼け空を渡り鳥が連れ立って飛んでいる。いつの間にか、それだけの時間が経っていたのだ。
クナは肩の力を抜いた。
「……間に合った」
約束の夕刻だ。
手元には調薬した解毒薬ができている。五百の薬の用意が間に合った。達成感というより、安堵と呼ぶべきものが胸に広がった。
砕いた粉末を、大きな壺にさらさらと流し入れる。何度も繰り返し粉を流し入れた壺は、八分目まで埋まっている。これだけあれば、毒に苦しむ住民たちに行き渡るだろう。
水場で手を洗い、前掛けで拭うと、クナは荷物を背負いかごへとまとめた。
髪を結ぶ紐を解くと、全身をどっと疲労感が襲う。座り込みたい気持ちをどうにか我慢して、台に寄りかかって息を吐いた。
「クナ、居るか?」
クナが肩を回していると、厨房の外から声がかけられた。
「うん」
リュカは厨房の外から、床に並ぶ薬を驚いた顔で見回して、次いでクナの顔を見る。
少なからずクナの表情から感じ取るものがあったのだろう。リュカが目を輝かせた。
「お疲れ様。やっぱりクナはすごいな!」
「キャンッ」
ロイもリュカの足元をくるくると回っている。はしゃぐ姿がなんだか似ている。
「どうも」
張ってしまった二の腕の筋を、クナはせっせとほぐしている。リュカは薬を眺めるのに忙しそうなので、やや緩んだ口元を見られてはいなさそうだ。
(にしても、腹が減った)
調合に集中していたときはまったく感じていなかった空腹感が、今や大波のように押し寄せてきている。
腹と背中がくっつきそうだ。村を出てから、ここまで強い飢餓感を覚えるのは初めてのことだった。
今さらになって魔力を使った反動が出ているのだろうか。昔はよく魔力切れによって頭痛や吐き気を覚えたが、それとは違う。腹の中にぽっかりと穴が空いたような感覚がしている。
「疲れただろ。でも悪い、兄さんは留守にしてるんだ。ここの鍵はいったん閉めてもらうから、納品は明日ってことでもいいか?」
リュカの提案は素晴らしいものだった。
クナは一も二もなく頷く。薬の品質は問題ないかが気にかかるが、とにかく空っぽの胃袋に何か入れたい。今アルミンがやって来たとして、まともに口が回る気はしなかった。
クナとリュカは本館の執事に施錠を任せると、連れ立って飲み屋に向かう。
ロイが元気よく先を歩く。たくさん寝て休んだおかげか、クナと違って足取りが弾んでいる。
子どもたちがけらけら笑い合いながら通りを走り抜けていく。煮炊きの香りが誘うようにクナの鼻先に漂った。
轍のついた石畳はまだ熱を持っていて、足裏に汗をかく。一日ごとに日が長くなり、照りつけるような暑さは増していくのだろう。しかしそれを、クナはあまり不快には思わなかった。アコ村の外で迎える夏はどんなものかと、待ち遠しくすら思う。
「もうあいつら来てるかな」
リュカは言いながら、裏口から建物に入る。がやがやと騒ぐ声が外まで漏れている。もう一杯ひっかけている男たちが居るのだろう。
(冒険者組合の客は表から、飲み屋の客は裏から入るのか?)
クナは推測するが、外れだった。裏口からクナたちが入ると同時、表口からセスとガオンが入ってきたからだ。
「来たな。待ちくたびれたぜ」
片手を挙げるセスは平気で法螺を吹いている。
「みんな、お疲れ様」
そこに私服姿のナディもやって来た。涼しげな色合いの上衣に、裾の長い下衣を合わせている。カウンターには別の女性が立っている。片方は見たことのない人だ。
ナディはリュカの隣に立つクナにすぐ気がつくと、笑顔で駆け寄ってきた。
「クナ、久しぶりね。元気だった?」
「うん。でもお腹が」
空いた、と言い終える前にセスが「おれも」と同意する。喋るのもだるいクナにはありがたい引き取りだ。
「とっとと注文しよう」
セスが先導して飲み屋へと入る。組合から直接繋がった飲み屋には、早くも赤ら顔をして大声で話す冒険者たちの姿があった。彼らの吐く息は総じて酒臭い。
クナたちは奥の空いているテーブルについた。しかし椅子はひとつもない。全員、立って酒を飲んでいる。ロイがこれ見よがしに伏せをするが、クナも同じように座り込むわけにはいかないだろう。
「さぁ、今夜はリュカの奢りだ。クナはエールでいいか?」
「私は果実水で」
「なんだって。労働終わりの一杯を知らないのか」
セスが愕然としている。
「酒はあんまり飲まないから」
弱いわけではないのだが、思考が鈍るのをクナは嫌う。酩酊して翌日の仕事に差し障るのはなお悪い。子どものように唇を尖らせるセスを、肘でナディがつつく。
「クナに無理に飲ませたら、承知しないからね」
「大丈夫だナディ。俺が見張る」
リュカが胸を叩く。その横でてきぱきとガオンが飲み物を注文している。よく四人で飲みに来るのだろう、注文する声は淀みがない。
「ロイの分の水もお願い」
「了解。その犬、ロイっていうんだ」
「可愛いわね、ロイちゃん。じゃなくてロイくん?」
「ワンッ」
ナディがはしゃいでロイを抱っこする。ロイはナディの頬をぺろぺろと舐めている。そんなナディを見てセスが鼻の下を伸ばしていた。
間もなく飲み物が届く。店員までなぜか顔が赤い。取っ手のついた木製のジョッキをリュカたちが掲げる。クナも同じようにしてカップを顔の前まで持ち上げた。何をするのかと見回したくなる気持ちを堪えている。
「んじゃ、俺たちの出会いに乾杯!」
「乾杯!」
クナは目を白黒とさせつつ、小さな声で唱和する。
ジョッキとカップをがちんと合わせる。水滴が手元に飛ぶ。キャンッ、とロイも一鳴きして、床においた器に顔を突っ込んでいる。
四人が一斉にジョッキを傾けるのを見て、クナもカップの中身をごくごくと飲んだ。甘さと酸味がほどよく混ざり合った果実水は、よく冷えた井戸水で割られているようだ。喉越しが良くていくらでも飲めそうだった。
「ぷはぁ」
全員が勢いのある溜め息を吐いている。セスが泡のついた口元をぐいと拭った。
クナもあっという間に飲み終えてしまう。しかし喉はともかく、空きっ腹は食事を熱望していた。
「注文していい?」
「もちろん。メニューはあっちに書いてあるぞ」
リュカの指し示した先を見る。壁板には、羊皮紙に書いたメニューが貼りつけてある。くずし文字だがなんとか読み取れる。ウェスは水が豊富だからか、食事よりも酒類のほうが多いようだ。
リュカやナディに都度訊きながら、気になるメニューを注文し終えても、まだクナは羊皮紙を見ている。
クナの視線の先に気がついたセスがにやりと笑った。
「おっ。飲む気になったか?」
「違うけど」
「違うのかよ」
消毒用の酒精を調達しようと思ったのだ。帰り際に店員に伝えようとクナは頭の中に留めている。
そうして、クナにとって初めての宴会が始まった。







