第53話.クナのホットパック2
クナは小さめの桶に薬草が染み込んだ煮汁を移して、厨房を出ていた。
ただ、湯がたっぷりと入っているので、かなり重い。注意深く運んでいると、通りかかった体格の良い使用人が、代わりに桶を持ってくれた。ほっとしつつ、クナは共に二階へと向かう。
貴族の館では、客人を招く空間は一階におかれ、家人の部屋は上階にあるのが一般的だという。移動中に冷めては意味がないので、桶ごと運ぶことにしたのだった。
使用人が叩扉すると、すぐに中から返事があった。
開いた扉をくぐるクナ。ロイは今回もおいてけぼりだ。ひくひくと動く鼻が垣間見えたが、扉は無情にも閉まってしまう。
「イシュガルさん、こんにちは」
部屋には明るい日の光が差し込んでいる。板戸も外されているようだ。
カーテンは穏やかに揺れていて、以前とは別の部屋に案内されたような錯覚を覚えるほどだった。
「クナさん、いろいろと準備いただいたようでありがとう。昨日の今日で、大変だったでしょう」
寝台に腰かけるイシュガルに化粧っ気はないが、昨日よりも表情がずいぶんと明るい。おしゃれや化粧をしないようにと頼んだのはクナだが、彼女は従ってくれたようで、寝着を着たままくつろいでいる。
その傍らに、椅子に座るリュカの姿があった。立ち上がると、当然のように桶を受け取る。さすがに力があるようで、軽々と持ち上げていた。
「寝台の近くにおけばいいか?」
「うん、お願い」
クナは、控える侍女のほうを向く。
「清潔な手拭いを二枚いただけますか? それと、寝台に敷布か何か引いてください。寝具が濡れないように」
渡されたのは、やたら手触りの良い手拭いだった。
(頬擦りしたくなるくらい、ふわふわしてる)
素材は絹だろうか。通気性は良いが安い麻に慣れたクナならば、包まれてすぐに眠ってしまいそうなほど上質な生地だ。
余計な感想は口には出さずに、クナは一枚を桶の縁にかけて、もう一枚を温かい煮汁に浸けて絞り出した。両手の間で何度か空気を含むように行き来させて、火傷しない程度の熱さになるよう調節する。
「良い香りね」
縁に花柄のついた白い布の上に仰向けに横たわり、イシュガルが呟く。香りづけの薬草の香りに気持ちが安らいでいるのか、口調もゆったりとしている。長い髪の毛は緩くひとつに結われて、枕に流されていた。身体には、柔らかそうな毛布がかけられている。
「イシュガルさん、首を少し持ち上げてもらえますか?」
彼女自身が動く前に、侍女がそっとイシュガルの頭と頬を支えて持ち上げる。
クナは首と白布の間に差し込むようにして、煮汁に浸した手拭いを入れる。頭が下げられると、イシュガルが目元を和ませた。
「温かくて、気持ちいいわ。なんだか入浴しているみたいね……」
うっとりと表情も綻んでいる。クナはもう一枚の手拭いを絞りながら頷いた。
「これは温熱治療といいます。入浴でもいいんですが、特に目と首に効果を与えたかったので、温湿布を用意しました。使っている薬草は、血行を促進するものと、疲労回復に効果があるものです」
「目と首? 温熱治療……ホットパックというのも、初めて聞くわね」
聞き慣れない言葉ばかりだからか、イシュガルが呟いている。
イシュガルではなく、侍女のほうに目顔で頼むと、すぐにイシュガルの目にかかる前髪を持ち上げてくれた。
クナはイシュガルの両目から顎のあたりにかけて、伸ばした手拭いをおいた。
最初は驚いたらしく、一瞬だけびくりとしたイシュガルだが――温かくて心地よいのだろう、ふぅっと息を吐いている。その肩から力が抜けていく。
「ぽかぽかするわ」
くぐもった声音が、湿った手拭いの下から聞こえた。
湯気の上がる手拭いにすっかり包まれてしまったイシュガルを、リュカは不思議そうな顔で眺めていたが、やがてクナに意を問うように視線を移した。
クナは首を振る。しばらくは、イシュガルにゆったりとした気持ちで治療を受けてほしかった。
全員少しだけ寝台から距離を取る。流れているのは、重苦しい沈黙ではない。
開いた窓から風が入り込んでくる。クナとリュカは椅子に座る。侍女は物珍しげに立ったまま桶の中を眺めている。
時間が経つと、クナは立ち上がった。そろそろ温湿布も冷めてくる頃だ。
「一度、外しますね」
侍女に手伝ってもらいつつ、二枚の手拭いを回収する。
イシュガルはいつも固く閉じているまぶたを、自然と開いていた。ぼんやりと宙を見ている視線からして、気持ちが良くて少し眠っていたのかもしれない。
血行が良くなってきたのか、顔色の悪かった頬には血の気が差している。
「すごい……」
世話係の侍女には分かりやすかったのだろう、彼女は思わずといった様子で呟いていた。
まだ煮汁がじゅうぶん温かいのを確認して、クナは再度、手拭いを絞る。
「もう一度、首だけ温めましょう」
「ええ、お願い」
よっぽど心地がよかったのだろう。自分から意気揚々と首を上げてみせる女主人に、侍女が目を丸くしている。
首の後ろに布を当ててやったクナは、目顔でリュカに合図をして部屋を出た。
部屋を出ると、ロイの姿はなかった。また誰かに食べ物をねだりに行ったのかもしれない。放っておいて、クナはリュカに説明することにした。イシュガル本人には、機を見てリュカから話してもらおうと思っていた。リュカならば、伝え方を間違うことはないだろう。
「目に異常はない。イシュガルさんの目が見えなくなったのは、精神的な問題だと思う」
「精神的な問題?」
視力に問題が生じたからといって、目にその原因があるとは限らないのだ。
身体の中はすべて繋がっている。心も例外ではない。身体を病めば、心に大きな不調が生じることがあるが、逆もしかりなのだ。
「イシュガルさんは、リュカのことを心配していた。それが最初の原因じゃないかな」
「……オレのことか?」
リュカは豆鉄砲を喰らったような顔をしている。
イシュガルは九月ほど前から、目の調子がおかしいのを自覚したという。
人は身体を傷めるとき、原因から三月かけて悪くなると言われている。イシュガルに不調の兆しが見える三月前にあった大きな出来事といえば――話を聞いた限り、リュカが冒険者になったことしか考えられない。
「そうか。だからクナは、オレに母さんとよく話すように言ったんだな?」
「そういうこと。イシュガルさんは、今もリュカが冒険者になったことに反対してるみたいだから」
イシュガルと話したとき、彼女はずっとリュカのことを気にかけていた。イシュガルにとって、リュカは唯一の息子に当たる。そんな息子が危険な職についたとあっては、心労を抱えていたはずだ。
しかもリュカは、一人前の冒険者としてやっていく証明として、一年前に家を出てセスやガオンと生活しているそうだ。リュカがクナにポーション代として支払うと言った十万ニェカとは、彼が冒険者として稼いだ財産を意味していた。
リュカにとっては、家族に自立を認めてもらうための一手だったのだろうが、ますますイシュガルは不安を感じていたことだろう。それでも、リュカの努力を分かっていたから口を挟めなかった。
(母親って、そういうものなのかな)
クナには母親の記憶がない。マデリは家族で師だったが、母とはまた違う気がする。イシュガルがそれほどまでにリュカの身を案じて、心身の調子を崩したと言葉にするのは難しくなかったが、自分はどこか理解とは遠い場所に居るような気がした。
ナディと話して、彼女の微笑みを間近で見たとき、母とはこういうものだろうかと思ったりはしたけれど、未婚の女性に抱くにはふさわしくない所感だろうと、胸の奥底に仕舞っていた。
「……筋肉が緊張して血流が悪くなると、まれに頭痛を引き起こす」
自身の首の後ろに手を当てて、クナは説明する。
首には太い血管がある。昨日触れたイシュガルの首裏は、ひどく冷たかった。
「特に首の血流が滞った場合は、一時的に視力に影響が出る場合がある。イシュガルさんも、そうなんじゃないかと思う」
「……母さんは失明したわけじゃなくて、血の巡りが悪くなってるってことだな?」
クナはこくりと頷く。
つまり、視力は元に戻る可能性が高いということだ。
「あとで侍女の人にも説明するけど、毎日、温湿布を朝と夜の二回、目と首に十分ほど当ててほしい。それと、夜は薬湯に入って全身を温めてもらいたい。薬草を入れた小包を作ったから、それを使って」
少し温めた程度では、症状は改善しないだろう。
何度も繰り返し、治療を続けるのが肝要だ。不幸中の幸いというべきなのか、イシュガルは領主の妻である。農民の妻であれば、数日働けないだけで生活は傾くだろうが、彼女であれば急がずに治療を続けられる。その立場と環境が整っている。
何度も頷いたリュカは、帳面を取り出す。細やかな質問をしながら、そこに何やら書きつけている。ちらりと見えた紙には、丁寧な文字が綴られていた。
十分ほど経ったので、そろそろ部屋に戻ろうかと思ったときだ。
リュカが、脱帽したように呟いた。
「クナは、すごいな」







