第49話.追われるクナ
「ロイ!」
ロイに噛みつかれたドルフが、情けない悲鳴を上げる。ひとりと一匹が湿った地面の上を転がり、もつれ合う。
「てめぇ、犬っころ、ぶち殺すぞ!」
痛みよりも、怒りをまざまざと感じたのだろう。悪態をつきながらドルフが拳を振り上げたから、クナは顔色を失った。
生き物は、殴れば死ぬ。強い毒を与えれば死ぬ。たとえ優れた薬があっても、助からない命がある。
人の勝手な都合で殺されたロイのことが胸に甦り、クナは無我夢中で叫んだ。
「やめて!」
「がっ」
ドルフが呻く。クナが手にしていたざるを、ドルフの顔に押しつけたのだ。
視界を覆われたドルフに数瞬の隙が生まれる。彼の顔中に薬草が雨のように降りかかる。ロイが素早くドルフの腕から口を離した。
どうするのか、と問うように、クナを見ている。
クナは考えるまでもなく、決めた。
「ロイ、行こう。私は大丈夫だから」
もしもクナが望めば、ロイは従って、ドルフの命を容易く刈り取ってしまったのかもしれない。
しかしクナは薬師だ。人を治すことこそが、仕事だ。感情を優先して誰かの命を奪う選択肢を選べば、クナは薬師を名乗る資格を失う。
だが、理解していた。この場に留まればドルフは何をするか分からない。
クナが駆け出すと、ロイが軽快な足取りでついてくる。森の中を、この美しい狼はそれこそ野原のように駆けてみせる。
「ロイ、怪我は? 毒は平気?」
『アォンッ』
鋭く鳴いて、少し前を導くように走るロイが答える。人の言葉ではないけれど、大丈夫、と言ったようにクナには聞こえた。
後ろを振り返って確かめると、噛まれた腕を庇いながらドルフが立ち上がっている。髪は泥にまみれ、頬には薬草が張りついている。底光りする目がクナを捉えたかと思えば、彼はこちらに足を踏み出した。
竦みそうになる身体を立て直して、クナは木の根を飛び越える。
膝裏まで泥が跳ね、靴は元の色が分からなくなる。クナは森の中で動くのに慣れているが、ぬかるみに足を取られてあまり速度が出ない。体格差からしても、ドルフに追いつかれる危険があった。
それでもクナは息せき切って駆け続けた。
やがて、ウェスを見下ろす麓までやって来る。雲間から射し込むうっすらとした朝日に街の半分ほどが照らされているが、まだ店の多くは戸を閉めたままで、街は眠っているようだった。
よくよく目を凝らせば、見慣れた門衛二人の姿が目に入る。彼らと話しているのは、背格好からしてセスとガオンだと思われた。リュカの冒険者仲間だという二人の男だ。手持ち無沙汰だからか、筋力訓練をしながら和やかに歓談しているようだ。
(私を待ってたのか?)
リュカには今日中に帰ると話してあったから、わざわざ門まで迎えに来たのかもしれない。
だが――見回しても、彼らの近くにリュカの姿がない。
『グルル……』
クナははっとした。ロイが背後を睨みつけている。草を踏む音がしたのだ。
それと、風に乗って流れてくる独特の不快なにおい――ドルフは、すぐ傍まで迫っている。クナは止めていた足を必死に動かした。もはや、足の感覚はほとんどない。自分でも、歩いているのか、走っているのか、よく分からなくなっている。胸がどくどくと脈打って、苦しくて、肺から押し出すようにして息を吐く。
枝を拾う時間もなく、傾斜を転がるようにして滑ったクナは、ウェスの南門前にようやく辿り着いた。
人前だからか、ロイはすでに子犬の姿になっている。気遣わしげにクナを振り返りながら、何度もきゃんきゃんと鳴いて、セスたちの注意を引きつけている。
「すげえ、本当に戻ってきたな! 間が悪いんだけどよ、リュカは今……」
セスが何やら興奮気味に話しているが、その声がうまく耳に入ってこない。
クナは息を荒らげながら、極度の緊張を覚えていた。喉がからからに渇いている。背負いかごの紐を握る手はひどく汗ばみ、紐の上をむなしく滑る。
――助けて、と。
言うべきだと分かっているのに、唇は少しも動かない。目の前の景色がぐらぐらと揺れるようで、気持ちが悪い。
急速に、音という音が、クナの意識からすぅっと遠ざかっていく。
(……言えない)
たぶん、ここにナディが居ようと、リュカが居ようと、同じだっただろう。
誰かに頼るような生き方を、クナは知らない。
頼りたいと思ったことはある。自分の能力の限界を突きつけられて、ドルフを頼ろうとしたこともあった。その結果、それがどれほど愚かしいことか痛感した。
張り詰めた糸の上を、息を殺して歩くように。
クナのような人間は、誰にも弱さを見せないように、硬い殻の中に引きこもるようにして生きていくしかないのだ。これからもそれは、変わらない。
(私は、言えない)
「……どうした?」
肩で息をするクナが、尋常な様子でないと気がついたのだろう。
セスが眉をひそめて訊いてくる。門衛たちも唖然としている。ガオンという黒いローブを着た男は、他人事のようにぼんやり突っ立っていた。
クナは改めて思う。
――ドルフのことは、ひとりでどうにかすべき問題だ。
「追われてる」
分かっていて、それでも、たった一言が口の端からこぼれ落ちた。
水の中に波紋さえ起こらないような、ほんの小さな呟きだった。
クナは肩であえぎながら、そう言うのがやっとだったけれど、その声は全員に届いたらしい。
セスとガオンが顔を見合わせる。代表するように、セスが問うてきた。
「困ってるんだな?」
きっと他に、彼らは気になったことがたくさんあったはずだ。
それでもクナは、頷くことしかできなかった。それよりたくさんの言葉を伝えることが、どうしてもできなかった。
けれどセスは、拳をもう片方の手に押しつけると。
「分かった。うし、よく分からんがどうにかしよう」
「……え?」
「クナ……だったよな。門の後ろに樽が干してあるからよ、そのあたりに隠れてやり過ごそうぜ。おっちゃんたちも、いいよな?」
「ああ。構わんぞ」
門衛までもあっさりと許可を出す。
「じゃあこっち来て、クナさん」
目を白黒とさせるクナの肩を、ガオンという男が押してくる。
門の影には、いくつか空の樽が無造作におかれていた。ほんのわずかに漂う酒気からして、日当たりが良いからと、酒屋の店主たちが日干ししているのかもしれない。
セスの指示の意味が分かった。クナは背負いかごを深い樽の中に隠してからロイを抱き上げると、樽と樽の隙間に身体を滑り込ませ、奥側でしゃがみ込んだ。その上に、ガオンがまとっていたローブを覆い布のように被せた。
「しばらくここに居てね」
ガオンが雑に手を振って戻っていく。また、何事もなかったように会話する四人の話し声が聞こえてきた。今年の蒸留酒の話、釣りの話、魔獣の話……。
クナは腕の中のロイを抱きしめる。初めて抱いたロイの身体は驚くほど柔らかく、温かかった。
腹には泥がこびりついていたが、気にならなかった。ロイの速い鼓動の音にだけ、耳を傾ける。そうしていると、呼吸が落ち着いてきた。慰めるように、ロイがクナの耳を舐めた。
「ひでえにおいだな」
クナには、ドルフの姿は見えない。だが、セスのその一言で、すべてを察する。
地面を歩いてくる足音と、こんな声が聞こえた。
「おい。醜い女の薬師を見たか?」







