第48話.相容れないのは
「兄さん。兄さんの作ったポーション、飲んでみたい」
それはマデリが死んだ年の瀬のことだった。
たった一度だけ、クナがそんな風にドルフに話しかけてきたことがあった。
黄色蓋の外れポーションを村人から責められるたびに、クナは次第に弱っていった。
ポーションを売り切るまで家に戻ってくるな、とドルフに言いつけられたクナの手足は、昨夜、凍傷まみれになっていた。弱り切ったクナを、ドルフは放置したが、本人は竈で火を熾して熱湯を用意すると、それを桶に貯めて、ずっと手足を浸けていたようだ。
そうしながら、自分で調合したポーションを飲み、体力を回復し続け、神経が解凍される激痛に歯を食いしばって耐えたのだろう。ドルフは、その様子を見物しても良かったかもしれない、と今さら後悔を覚えていた。普段は表情をほとんど変えないクナが、瞳を涙ににじませる様は、どれほど哀れだっただろうか。しかし昨夜は酒が回り、日付が変わる頃に寝てしまったのだった。
「俺のポーション?」
「……勉強させてほしくて」
追い詰められたクナが、初めて自分に目を向けた――その事実に、ドルフは痺れるほどの快感を覚える。
クナは青蓋のポーションを手に取り、その中身を飲んだりはしない。薬師としての知識やあり方をマデリによって叩き込まれた少女は、愚直なまでに真面目で、店頭に出した商品はすべて客のためのものだと認識している。
だから聡明でありながら、決して、ポーションの蓋が取り替えられていることには気がつかない。これからも一生、気がつくことはないだろう。
「それはいいが、今日分のポーションは作ったのか?」
「うん。二十本、並べておいた」
ほんのわずかに、クナは口元に笑みを浮かべている。兄が気遣ったとでも誤解しているのだろうか。
早くそれを歪めてやりたい。ドルフはその気持ちだけでいっぱいになっていく。凍傷から回復したばかりだというのに平気で調合に赴くこの得体の知れない少女の心を、ずたずたに切り裂いてやりたかった。
「なら、いいだろう。お前用に特別に作ってやるよ」
「本当?」
クナが目を輝かせる。村人に愛されるポーションの作り手から、学びの機会を得た。それが嬉しいと言わんばかりに。
もちろん、クナにドルフの作ったポーションは渡せない。クナ自身が作ったものを自分のポーションと偽って出すなど、さらに悪い。鋭敏なクナに、自ら今までの行いを暴露するのと同じだ。
ドルフの頭には、ひとつの考えが閃いていた。
「とびっきりのポーションを作ってやるよ」
クナは身を震わせる。
それが、森の魔獣が見せる幻影か何かであったなら、どれほど良かっただろうか。
しかしクナの希望を粉々に打ち砕くように、見慣れた兄は、茂みをかき分けて、こちらに歩を進めてくる。
クナは恐る恐ると、鼻と口元を覆う布を外す。
腐乱したようなにおいが、瞬く間に鼻先に漂う。毒に侵されていた人物は、やはり目の前のドルフのようだ。
「どうして兄さんが、森に居るの」
「ロイって、シャリーンが飼ってた犬の名前だよな」
ドルフは、クナの問いには答えない。
その顔や首筋、手足に、いくつもの発疹がある。顔色も土気色で、まるで死人のようなのに、頬だけに赤みが差している。
奇妙な男――ドルフが、黄ばんだ歯を見せて笑う。
「クナ、お前、可愛いとこあるじゃねぇか」
それは空いた胸の中心に、冬の冷気がすぅと入り込んでいくような不快な感覚だった。
(……何を言ってるんだ、この人は)
ロイはもともと、シャリーンに毒を盛られて死んだ犬の名前だ。
クナを貶める材料として使われた挙げ句、命を落とした哀れな犬だった。ドルフはその事実をどう解釈しているのだろう。クナはそれを、知りたくもないと思う。
「なぁ、クナ」
猫なで声でドルフがクナの名を呼ぶ。
背筋に怖気が走り、クナは一歩後退するが、ドルフは構わず近づいてくる。ロイが歯をむき出して唸るが、ドルフはやや身を引くだけで、クナに近づいてくるのをやめない。万が一の場合も、クナが止めると思っているようだ。
「あれからどうしてたんだ。森で暮らしてたのか? ひとりで辛かっただろ」
「…………」
「でももう大丈夫だ。俺と一緒にウェスに行こう。二人でまた薬屋を開くんだ。でさ、とりあえず――解毒剤を作ってくれないか?」
熱があるのだろう。荒っぽい息を吐きながら、ドルフが急に思いがけないことを言う。
訝しげに、クナはドルフを見つめる。彼の言うことは何もかも的外れだ。そして、それ以上に引っ掛かったのは。
「……どうして、私に作らせるの?」
――ぴたり、とドルフの足が止まる。
見開いた目と、張りついたような笑顔が、クナをじっと見る。あまりの不気味さに再び身体が震えそうになったが、クナは踵を地面に縫いつけるようにして立ち、震えを堪える。
ドルフがまとう、異様な臭気のせいだろうか。
生き物も虫も、息を潜めているかのように、森の中が静まり返っている。さらさらと流れる沢の音や、頭上で梢が鳴る音さえも、遠ざかってしまったかのようだ。
(他に誰も、居ないみたいだ)
クナとドルフだけが居て、他の誰かなんて、最初からどこにも居ない。
クナはただ、泡沫の夢を見ていただけ。そんな錯覚に、頭が揺さぶられる。ウェスに辿り着いた感動も、そこで出会った人々との交流も、届けられた感謝の言葉も……すべてが、幻だったかのような。
心細さを堪えて、クナは言葉を続ける。
「兄さんは私なんかとは比べものにならないくらい、優秀だよね。ズク草の毒くらい、簡単に解毒できるはず――」
「ズク草?」
「……え?」
聞き返されたクナは、呆然とした。
その顔には、無知への純粋な驚きだけが浮かんでいた。どうして、なぜそれを知らないのかが理解できない、という、遠い場所からもたらされる驚愕があった。
そしてクナの表情の意味を、ドルフのほうは正確に理解したのだろう。
彼の鼻の穴が大きく開かれる。目が憤怒に血走り、土気色をしていた顔に、かっと閃くような赤みが走っていた。
「て、めぇ――人が下手に出てりゃ、調子に乗りやがって!」
悪魔のような形相に変貌したドルフが、クナへと一目散に詰め寄る。
しかし伸ばされた両腕がクナの首にかかることはなかった。
『グルウウッ!』
飛び出したロイがドルフを引き倒し、その腕へと噛みついていた。







