第44話.目の見えない男爵夫人
クナは屋敷の中へと案内される。
道順を覚えるにも苦労しそうな広い屋敷だ。絵画や壺など、いかにも高そうな調度品がいくつも飾られている。
素人同然のクナの目からしても下品だと思えないのは、不自然に華美ではないからだ。壁や調度の色合いや装飾にこだわり抜き、調和が取れた空間が演出されているのが伝わってくる。
(売ったら、何ニェカくらいになるかな)
踊り場に飾られた絵画の値段に思いを馳せていると、あっという間に女主人の部屋の前に到着していた。
まずは執事が叩扉をして呼びかける。侍女が応答し、ドアを開けると、リュカに続いてクナは部屋へと入った。執事は入室せず、一礼して立ち去ってしまう。
ロイは部屋の前で待たせることにした。リュカの母親が動物嫌いの場合もあるし、どちらにせよ診察の役には立たないからだ。
(暗い部屋だ)
その部屋は日中だというのに、窓際のカーテンがすべて閉めきられていた。板戸がつけられているようで、カーテン越しに光も感じられない。
燭台の蝋燭がひとつ灯されるだけの室内で、どこに何があるかもよく分からない。リュカの影が長く伸び、ゆらゆらと壁に揺れ動く様が不気味である。空気もむわっとこもっていて、クナの額にうっすらと汗がにじむ。
「母さん、来たぞ」
リュカが部屋の隅にある寝台に呼びかけると。
その瞬間、「きゃあ」とあられもない悲鳴が上がったものだから、クナは一瞬、本当に幽霊か何か出たのかと身構えた。しかし続いたのは足音と、こんな声だった。
「リュカちゃん、嬉しいわ。お母さんのお見舞いに来てくれたのね。今日はどこにもお出かけしてないのね!」
「うん。見舞いというか、なんというか」
リュカが困り顔で、誰かを受け止めている。
その頃にはクナの目は暗がりに慣れつつあった。リュカに肩を支えられている女性の姿を見る。
年の頃は四十代前半くらいだろうか。長い髪は結ってきちんとしているが、化粧は控えめで、服装も夜着らしい軽装にガウンを羽織った質素なものだ。
ゆらめく炎に照らされる髪色は、リュカとよく似ている。両目は頑なに閉じていることからして、彼女が、リュカの母親なのだろう。老いを感じさせない美しい顔立ちがそっくりだった。
「それで母さん。何度も、本当に何度も言ってるけど、ちゃん付けで呼ぶのはやめてくれ」
「分かったわ、リュカちゃん」
悩み事とは無縁に見えるリュカも、実家では苦労の多い様子だ。
溜め息をこぼすリュカが、母の手を取って優しく誘導し、寝台へと導く。途中からはお仕着せを着た侍女が手伝っている。
寝台の上に腰を下ろした女性は、何度か尻の位置を落ち着きなく調整している。その間に侍女が椅子を運んできたので、クナは座らせてもらった。
そういったやり取りの声が聞こえていたのだろう。女性が華やかな声で話しかけてくる。
「ご挨拶が遅れてしまったわね。わたくしはイシュガル・リッドです」
「薬師のクナです」
「クナさん、今日はよろしくね」
挨拶しながら、クナはイシュガルの様子を休まず観察している。
イシュガルはクナのほうをうまく向けていない。身体の向きがやや左にずれている。目が見えないのは間違いないようだ。
「クナさん。あなたリュカちゃんとは、どういう関係なのかしら?」
胸の前で両手を合わせたイシュガルが、どこか弾んだ声で問うてくる。
「おい、母さん」
焦ったリュカが割り込もうとする。その前にクナはさらりと事実を答えた。
「顧客と薬師です」
「うん。そう、そうなんだよな」
複雑そうな顔で肯定するリュカだが、イシュガルは「きゃあ」とまた明るい声を上げた。レースのついた内履きを履いた足先まで、少女のそれのように揺れている。
「そうなのね。リュカちゃんが女の子を家に連れてくるのは初めてだから、舞い上がっちゃった。それじゃあクナさん、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
クナは名乗る姓を持たないし、薬師という職業からして、平民だと気がついたはずだ。だがイシュガルは、セドリクたちと同じく友好的な態度だった。
「では、症状について教えていただけますか?」
こくりと頷いたイシュガルが話し出す。
自覚症状は九月前。目が覚めると、しばらく目がかすみ、一時的に何も見えないこともあったという。目は見える日も、見えない日もあったし、どちらにせよ時間が経てば回復するのであまり気にしていなかった。
しかし一月前には、両目ともほとんど見えない状態になった。おぼろげな輪郭は感じられるそうだが、強い光を感じると気分が悪くなるため、部屋の光源も最小限に絞っている。今は部屋で食事をとり、湯浴みの際は真鍮の浴槽を部屋に持ち込んでいる。部屋の外に出るのは用を足すときくらいだという。
何人もの医者に罹ったというから、何度も説明したことなのだろう。イシュガルの口調は淀みなく、はきはきとしている。
医者が処方した薬はすでに切れているが、あまり効果はなく追加していないという。調剤された薬については、書きまとめた書類というのを見せてもらった。点眼液や目の中に直接入れる眼軟膏が処方されたようだ。
(視力改善のため、テナの葉とゴルの根を混ぜた点眼液……それに、角膜を保護する軟膏か)
きっとクナも、目が見えない客と言われれば、いちばんに思いつく薬だ。
悪くはない。だがそれで効果が出ていないなら、着眼点自体に問題があるのかもしれない。
「診察がしたいんですが、カーテンと板戸、それに窓を開けてもらってもいいですか?」
クナの要請にイシュガルはやや渋ったが、否やとは言わなかった。
侍女が引き違いの板戸を開けば、明るい日の光と爽やかな風が、待ちわびたように暗い部屋の中に飛び込んでくる。開いた窓からは、庭園に咲く花の香りがした。女主人の部屋というだけあり、日当たりが良く、花が咲き誇る庭園を望むバルコニーまでついている。
寝台に仰向けて横たわったイシュガルに一声かけて、クナは彼女の上目蓋と下目蓋を、指先でこじ開けた。
手元に光る実があれば良かったが、ないものねだりである。クナは目を凝らし、日光に照らされて瞳孔が小さくなった瞳の様子を丹念に診察する。右目の次は、移動して左目を確かめる。
(どちらの目も眼球自体は、傷ついてない)
白目にも充血は見られず、角膜に傷もない。
クナは診察を続けつつ、質問を繰り出す。病気で死んだ親族や、先天性の病の有無からはじまり、普段の食事内容や睡眠時間、散歩の頻度、読書や裁縫、刺繍は好きかなど、あらゆる質問をする。
「両目のこと以外にも、何か困ったことはありましたか?」
「両目以外?」
初めて、イシュガルが面食らった様子を見せたのは、それは初めての質問だったからだろう。
だが分かりやすい症状が現れていても、原因がその部位にあるとは限らない。身体の部位同士は、目には見えない細やかな繋がりを持っている。足裏のつぼなどは顕著で、刺激する位置によって、どの内臓が傷んでいるかおおよそのことが分かる。
しばらく考えていたイシュガルが口を開く。
「ええっと、いつも頭痛がするかもしれない。強い光を浴びたときもくらっとするけれど、それとは別に」
「頭痛ですね」
「それと特に困ってるのは、リュカちゃんが冒険者なんて危ない真似をしてること」
イシュガルがこれ見よがしに溜め息を吐く。壁際のリュカは困り顔をしていた。
「なるほど。ありがとうございます」
クナは礼を言い、最後にイシュガルの首に触れてから、診察を終えた。
イシュガルが身体を起こすと、侍女が彼女の衣服の乱れを簡単に整える。その間、クナは椅子に座り込み考えを巡らせている。
隣町からも高名な医者を呼んだと聞いている。彼らの中のひとりが、イシュガルを不治の病と呼んだのは、国内で知られる症例に彼女が当てはまらなかったからだろう。未知のものを、すべて不治と断じる医者も居る。彼らにとっては、そのほうが何かと都合が良いからだ。
だが、これまでのイシュガルの話から、クナには見えてきたものがあった。壁に寄りかかっていたリュカを、クナは振り返る。
「リュカ。イシュガルさんと少しだけ二人にしてもらえる? 侍女の人には残ってもらっても構わないけど」
「分かった」
そうする必要があるからだと、リュカはすぐに納得してくれたようだ。
彼が部屋を出て行くと、室内にはクナとイシュガル、侍女だけが残る。足音が遠ざかっていくと、イシュガルが、物珍しげに呟く。
「クナさん、リュカちゃんから信頼されているみたいね」
「それは、どうでしょう」
リュカは、誰にでも均等に優しいように見える。よそ者のクナにも親切に振る舞うような青年だ。
「あの子は優しいけれど、誰にでも優しく接するような考えなしのお馬鹿さんじゃないのよ」
だとしたら、クナはリュカに応えたいと思う。クナの薬師としての腕を信頼し、依頼してきたリュカに。アコ村では、クナは誰からも信用されない無用の薬師だったのだから。
「それで、わたくしに何か訊きたいことがあるのよね?」
「ええ」
クナは頷き、最後の質問を口にする。
「イシュガルさんは、今もリュカが冒険者になるのに反対してますか?」
「…………、」
イシュガルは少ない言葉で、回答を口にした。
それを聞いたクナは、はっきりと言い放った。
「私なら、あなたを治せると思います」







