第29話.蜂蜜がけオムレツ
あのあと、急に空が暗くなり、ぽつぽつと雨が降り出したのもあり、クナは早々に店を畳んだ。
雨が降らずとも、公衆の面前で泣き顔を晒した気まずさで、きっと宿屋に逃げていたことだろう。そんなクナに、ナディはきれいなスカーフを貸してくれた。「雨に濡れるから」と理由を口にしていたが、実際は、周囲からクナの顔を隠すためだったのだとクナは少し経ってから気がついた。
狼狽えるばかりの男衆三人を、ナディは細めた目で睨みつけて威圧すると、ポーションと営業許可書をさっさとかごに入れて背負い、クナの手を引っ張った。
幼子のような気持ちで、クナはただ引かれるままについていく。どこに行くのかと思いきや、着いたのは冒険者組合である。それこそ人目がある場所だとクナは辟易したのだが、ナディの行き先は職員の控え室だという部屋だった。
明かり窓のある部屋だが、分厚い雨雲に遮られた空から日光は射し込まず、室内は昼前だというのに薄暗い。
ナディは火打ち石を使い、壁にぶら下がるランプに火を灯した。炎魔法が使えないのだろう、手慣れた手つきだった。
ほっとする穏やかな光が部屋を照らす。クナは、鼻先をくすぐる独特のにおいを感じ取った。
(燃料に使っている植物油、ヤンの実だ)
ヤンの実という褐色の実から抽出される油は、比較的安価で手に入る。この実から作る油は、ほのかに甘いにおいがする。どこか焼き菓子のように香ばしいから、このにおいを嗅ぐとお腹が空いたと騒ぐ子どもも居る。
照らし出された部屋には、横に長いテーブルに、それを囲むように三脚の椅子、壁際に本棚と暖炉が置かれていた。
煉瓦造りの暖炉には薪は入っていないが、灰はしっかりと片づけられている。
赤い目で何度も瞬きをするクナを椅子に座らせると、その両手に、ナディはどこかから持ってきたタオルをそっと置いた。
白いタオルの温かさに、ぼぅっとしていた意識が定かになっていく。お湯に浸して、絞ったばかりなのだろう。
もう一枚、こちらは乾燥したタオルで、ナディはロイの濡れた身体を丁寧に拭く。きゃん、とロイは礼を言うように一鳴きした。
背負いかごまで拭き終えると、ナディは立ち上がった。
「タオルは遠慮なく使ってね。それじゃ、ちょっとここで待っててくれる?」
返事をする間もなく、部屋を出て行く。
きびきびと動く彼女を見送ったクナは、天井を向くと顔にタオルを載せた。
ほんわりとした温かさが目元から広がっていき、クナは詰めていた息を徐々に吐き出す。
しばらく意識してゆっくりと呼吸を繰り返している間に、騒がしかった鼓動が、次第に落ち着いていった。
クナはタオルを離し、未だしぱしぱとする目をしばたたかせた。頭の中心が熱を発するように痛む。泣きながら、ひどく歯を食いしばったせいだろうか。そうしなければ、嗚咽が我慢できなかったから致し方ないが。
「きゃんっ」
身を屈めて、足元にまとわりつくロイの頭を撫でてやる。立派な白い毛は湿り気を帯びている。
「ごめんね、お待たせ」
ナディが戻ってきた。両手に盆を載せている。
クナの前のテーブルに、ナディは皿と木のスプーン、温めた牛の乳が入ったカップを置いた。
クナが湯気を出す皿に気を取られていると、ナディは少し冷えてきたタオルをクナの手から受け取り、さっさと持って行ってしまう。
(……あ、お礼)
とクナは思い出したが、そのときにはやはりナディは退室していた。
またしばらくして戻ってきたナディが、クナの正面席に腰を下ろす。視線に気がつくと、顔いっぱいでナディが笑った。
「蜂蜜がけオムレツよ。あたしの大好物なの」
クナより年上だろう彼女の笑顔は、カウンター越しに見たものより幼げだった。
ナディとオムレツとの間で、クナの視線は彷徨う。ナディは頬杖をつき、優しく微笑んだ。
「お詫びだと思って、良かったら温かいうちに食べちゃって」
「お詫び?」
クナは顔を赤くした。自分の声が掠れていたからだ。
ナディは笑ったりせず、快活に説明してくれる。
「さっきの三人組、あたしの弟分なの。弟の不始末は姉がなんとかしないとね。ほらほら、食べちゃって。お腹空いてるでしょ?」
その言葉に促されるように、クナはスプーンを持ち上げる。
黄色よりもオレンジに近い、濃厚な色合いのオムレツだ。丸く膨らんだ表面にとろりと惜しげもなく蜂蜜がかけられており、食欲をそそる香りが部屋中に漂っている。
こくり、と唾を呑み込んだクナは、スプーンの先でオムレツを切り分けた。卵が畳まれた切れ端は少し焦げていて、それがまた、なんともおいしそうだ。
口に含んで、咀嚼すると、クナの口角は自然と緩んでしまう。
「おいしい」
「でしょ?」
「これ、魔鶏の卵?」
「あら、よく分かったわね。取れたての魔鶏の卵を三個使ってるの」
それに、とクナはスプーンに載せたオムレツを目線の高さに上げる。
うふふ、とナディが機嫌良さそうに笑う。
「チーズが入ってるんだ」
「そう! チーズ入りオムレツなの。チーズの酸味と蜂蜜の甘さが合うのよねぇ」
いつの間にかお互いに、口調が砕けている。
クナはふくふくと膨れたチーズオムレツを、熱いうちに食べてしまった。
牛の乳で喉を潤す。雨に濡れたせいか、全身は思っていた以上に冷えていたのだと、食事をしてから思い至る。ナディはクナと手を繋いでいた。だから、温かい食事を振る舞ってくれたのだろう。
クナがカップをテーブルに置くと、ナディが盆に空になった皿を片づけていく。
その姿を見ていて、クナはふと思う。
(もし、私に母親が居たら……)
こんな感じ、なのだろうか。
マデリは師であり家族だったけれど、母親という感じではなかった。クナに薬草の知識を吸収させることを、何よりも優先していた。
視線に気がついたのか、ナディと目が合う。笑いかけられると、クナは思わず俯いてしまう。
ナディはクナより年上だろうが、指輪も着けていない未婚の女性だ。母親のように錯覚したなどと知られたら、不快に思われるに違いない。
それでもその微笑みに、心が安らぐのを感じたのだった。
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