第20話.ある青年の帰還
「リュカが見つかったぞ!」
騒ぐ男の声と共に。
複数人の足音が、地面を揺らして近づいてくる。
ちらりと見れば、それまで落ち着き払っていたナディが、目を大きく見開いている。その口元の動きを、クナは見逃さなかった。
「……見つかったのね」
それでいろいろと、合点がいく。
人を見かけたか、と言いかけたナディ。それがリュカという人物なのだろう。
本当ならばもう少し話を聞きたいところだったが、今は邪魔になるだろうと、クナはカゴを背負い直した。
紙幣を懐に入れてから、軽く頭を下げる。
「それじゃあ」
ナディは何か言いかけたようだったが、その言葉はクナには聞こえなかった。
入り口の階段を、若い男が息せき切って駆け上ってくる。
「ナディ! リュカが!」
資料室というのを覗く予定だったクナだが、その一声を聞いたとたん、くるりと踵を返して裏口へと向かっていた。
喜びに満ちた声はとにかく大きく、その後ろからもざわめきが聞こえてくる。おそらく二階にも声は届くだろう。こんな環境で資料とやらを読み込むのは難儀しそうだ。
(まずは、服でも買うか)
宿の前に、服屋に寄ろうと決める。
森で拾った麻の服は沢で洗っていたが、だいぶん汚れている。安い服でいいから、サイズの合う服に着替えたかった。
まだ贅沢できるほどの稼ぎはないが、無一文のときよりずっとクナの足取りは軽い。
その口元はほのかに緩んでいる。ロイが甲高く鳴いて、石畳の路を走り出した。
◇◇◇
クナが去って行ったギルド店内である。
その小さな後ろ姿を見送ったナディは、細い眉を眉間に寄せていた。
振り返ると、顔なじみの子どもや冒険者たちがぞろぞろ押し寄せている。
全員の顔が喜びに輝いているが、立場上、ナディは注意しなければならない。
「もうっ、お客様が居たのに……騒がしいわよ、あんたたち」
「お客様って、どうせ冒険者だろ」
ふんっと鼻を鳴らすセスは二十歳を迎えたばかりの、年若い冒険者だ。
農民は耕作地を放棄して、冒険者になることが禁じられるが、長子ではない、四男のセスの場合は許される。家族の反対を押し切っての冒険者生活は二年目に突入していた。
丸みのある顔に、左眉を斜めに切るような古傷がある。本人は勲章のように思っているようだが、やんちゃな印象が増すばかりだ。
「それで、リュカが見つかったのよね? 無事なの?」
「ああ。怪我もしてない。自力でふらふらと森から出てきたんだ。少し話はできたが、疲れたみたいで寝ちまったから、ガオンがおぶって診療所につれていったところだ」
ガオンというのは、セスの冒険者仲間だ。
二人とも、ナディにとっては近所の悪ガキである。昔から無茶ばかりして、心配ばかりかける困った弟たちだ。
彼らの三人目の仲間であるリュカについては、事情が違うのだが、今ではリュカのことも世話の焼ける弟のようにナディは思っている。
そして三人のうち、最も無茶をするのがリュカという青年なのだ。
その名前は、ウェスでも広く知られているので、店内に居た冒険者の何人かが歓声を上げている。
誰もがリュカのことを心配していたのだ。それは彼の立場というよりも、人柄によるものが大きいのだろう。リュカが行方を消してから、どこか街の雰囲気は暗くなっていた。普段のウェスは、もっと活気づいている。
リュカが森に向かったらしいと分かってはいたが、捜索隊を送り込むことはできなかった。さらなる犠牲者が増えるだけだと、領主から禁止令が出たからだ。冷たい判断に思えるが、この地を長年治めてきた領主は、『死の森』の恐ろしさを誰よりも知っている。表立って異を唱える者は居なかった。
セスやガオンは領主を冷酷無慈悲だと罵りながらも、毎日のように南門に通い詰めてリュカの帰りを待っていたのだ。
しかし誰も、リュカが五体満足で戻ってくるとは思っていなかった。ナディもそのひとりだ。
せめて死体か身体の一部でも、何かの奇跡で取り戻せはしないかと考えていた。安堵の涙が瞳ににじみそうになり、ナディは目にゴミが入ったふりをして目元を擦った。
「……領主様には?」
「他のやつが伝えに行ってくれたよ」
「そう。でも、よく助かったわね。しかも無傷だなんて」
「それが、『死の森』に入ってすぐ魔狼の群れに追われて、どうにか逃げ延びたんだが、今度は発情した雄の魔猪に出会して死にかけてたらしい」
ナディは呆然とする。
「話が違うじゃない。大怪我を負ってるの?」
「いいや、だから無傷なんだ。なんでも、森の中で会った人に助けてもらったんだと」
森の中で会った人?
興奮した様子でセスがまくし立てる。
「それがすごいんだよ。服についた血の量を見るに、どう考えても致命傷だったんだが、リュカの身体には傷ひとつ残ってなかったんだ」
「……嘘でしょ?」
口を半開きにするナディに、「ほんとだって!」とセスが言い募る。運び込まれるリュカの姿を見たのか、床板の上を跳ね回っていた子どもたちも、うんうんとしきりに頷いている。
「初級か中級ポーションじゃ、回復する傷じゃないと思うんだ。通りすがりのその人は、きっと惜しげもなくリュカに上級ポーションを使ってくれたんだな」
仲間思いのセスは涙ぐんでいる。まだ見ぬ命の恩人に感激しているようだ。
「しかもリュカが目覚めたときは見覚えのない洞窟に居たそうだ。携帯鍋とか調味料も落としちまってたみたいで頭を抱えてたら、なんと頭の横にサフロの実が置いてあったんだと。恩人というか、聖人というか、っああもう、人生は捨てたもんじゃないな」
酔うと法螺を吹くセスだが、その物言いは決して大袈裟ではない。
二度も凶暴な魔獣に遭遇しながら、生きて生還したなどと、それこそ奇跡の領域だ。
だが、『死の森』に《《通りかかった》》というその人物は、いったい何者なのか。
(聖獣様が、救ってくださったとか?)
『死の森』には聖獣が住むと言い伝えられている。
しかしその姿が最後に確認されたのは、まだ森がそう呼ばれていなかった頃の、遠い昔の話だ。果ての山脈から移り住んだ聖なる獣は、美しい心を持ち、自然に通ずる人間を愛し、加護を与えるという。
逆に言えば、聖獣の姿が見られなくなってから、森には魔獣が増え続け、凶暴化していった。つまり、聖獣が救ったわけではないのか……。
突拍子もないことを考えながら、ナディははっとする。
どこか常人離れした佇まいの少女のことを、思い出したのだ。
(さっきのあの子……)
彼女――クナが持ち込んだ薬草は、初級ポーションの材料。売ってくれたキバナは、中級ポーションの材料だ。このあたりでは、『死の森』でしか採れない。
セスは、中級ポーション程度では治せない傷だと言ったが、クナの持ってきた薬草はどれも最高の品質が保たれていた。あのキバナを有能な薬師が使えば、行商人が街の外から運んでくる中級ポーションよりも、よっぽど高品質なポーションができるのではないか。
(って。あたし、あの子が薬師かどうかも訊いてないじゃない……)
ナディはがっくりとする。
平静な振りをして、普段より抜けている。自分もやはり、リュカが心配で仕方なかったのだと突きつけられるようだった。
――クナの今夜泊まる宿は分かっている。
だが、ナディはそこに無理やり押しかけようとは思わなかった。その代わり、次に彼女がギルドを訪れたときは、訊かねばならないことができたのだった。
「リュカが目を覚ましたら、しばらく依頼を受けずに恩人を捜さないとな。ナディには悪いけど」
軽口を叩くセスに、ナディは腕を組む。
「心配しないで。あんたたちが何もしなくたって、ギルドは円滑に回るんだから」
「なんだと!」
「またやってるよ」と、楽しそうな笑い声がその場に溢れる。ナディも破顔した。
とにかく今は、リュカが無事帰ってきた喜びを、みなで分かち合いたかった。







