第17話.門を越えて
それから三十分ほど歩いただろうか。
傾斜になっている場所を見つけると、クナは長い枝を使って慎重に下りていった。
ロイも後ろをぴょんぴょんと危なげなく下りてくる。姿が子犬に変わり、ずいぶんと足は短くなったが、特に不自由はなさそうだ。
服の埃を払い、歩き出す。ここまで近づくと、街中を流れる水路の音も聞こえてくる。
間もなくして、街を守る門衛たちが足音に気がついて顔を上げた。
先ほどまでは門のそばに何人か居たが、今は姿を消しているようだ。
煮固めた皮鎧をつけた門衛の手には、薄っぺらい槍が握られている。尖った矛先は天を向いているが、いつこちらを向くかは分からない。
緊張のせいか、クナの喉奥には唾が込み上げてくる。ウェスに受け入れられなければ、クナには他に行く場所がない。
街の外だからか、ここは剥き出しの地面の上を、クナは進んでいく。一挙一動をつぶさに観察されているのを、肌で感じる。
声が聞こえるほど近くまで寄ると、右側に立つ中年の男が口を開いた。
「いつ、森に入った?」
(あー……)
その一言で、何を不審がられているのかクナは気がついた。
彼らはクナに見覚えがないのだ。門はおそらく朝に開かれ、夕方か夜頃には施錠されるのだと思われる。
だとすると、朝から門を見張るだろう彼らが、見送っていないクナを不思議に思うのは当然だ。
つまり、クナは『いつ』森に入ったかではなく、こう答えるべきだ。
「アコ村から来ました」
二人とも、聞き覚えのない単語を耳にしたような、どこか困惑した顔つきになった。
「アコ村というのは……『死の森』向こうの果ての村のことか?」
「そうです」
果ての村。ウェスの住人たちはアコ村をそう呼んでいるのだろう。
二人が互いに小声で何かを言い合う。立ち尽くすクナはじっと眉根を寄せて待つしかない。
どんな話し合いが行われたのか、左側の若い男が質問してくる。
「君は冒険者には見えないが、魔獣だらけの『死の森』をどうやって越えたんだ?」
「私は薬師です。薬の知識がありますし、魔獣の住処を避けてどうにか」
自力で魔獣を一頭仕留めました、などと付け足す必要はないだろう。さらに怪しまれては困る。
薄汚れた格好ながら、クナは怪我らしい怪我も負っていない。職業については、それで信じてもらえたようだ。
二人が顔を見合わせる。それでも疑いは残るらしい。
「だが薬師といっても、見たところ君はずいぶん若いよな。それなのにひとりで森をくぐり抜けられたとは、にわかには信じがたいが」
「ひとりじゃなかったので」
「きゃーん」
足元で尻尾をふりふりし、ロイが可愛らしく鳴く。自分は人畜無害な子犬です、と力業で訴えているようだ。
とても猟犬には見えないロイだが、一瞬、空気が和む。男のひとりがクナを見やる。
「大変だったな」
「……どうも」
まさか労われるとは思っていなかったので、数秒遅れてクナは頭を下げた。
二人の目からはいぶかしむ色が消えている。どうやらクナを槍で追い立てる気はないようだ。さすがにクナも胸を撫で下ろした。ロイに分けてやる肉の量を、少しだけ増やしてやろうと思う。
「いくつか教えてほしいんですが」
「なんだい?」
「この街で最も安い宿の代金を教えてください。それと薬草や、調合したポーションを売る場所はありますか?」
魔猪一頭分の肉があるから、食事にはしばらく困らない。
とりあえず確保したいのは寝る場所だ。森の中で獣の鳴き声を聞きながら洞窟や木のうろで眠る日々は、まったく身体が休まらなかった。今晩はわずかでも金を稼いで、まともな寝床で眠りにつきたい。
問題なのは、クナに金銭の手持ちがないということだ。薬屋から洞窟に連行され、着の身着のまま森に追放されたクナは、小銭すら持っていない。これではどこの宿でも門前払いされてしまう。今日のうちに一夜の宿代は稼がなくては、また森に逆戻りだ。
二人が顔を見合わせて、ほぼ同時に首を横に振る。
「宿の代金は、すまん、おれたちには分からんな」
「そうですか」
おかしなことではない。彼らには帰るべき家があるのだ。自分の住む街にある宿屋の料金など、いちいち調べることはないだろう。
「ただ、いちばん安い宿は『アガネ』かな。風呂場はあるが、部屋の壁が薄いそうだ。食事は一階の台所で、調理器具だけは借りられると聞いたことがある」
「へぇ。良い名前の宿ですね」
そうか? というように男が首を傾げる。
アガネは根無し草だ。それだけで、宿の店主がどういうつもりで名づけたか、分かろうというものである。
アガネは薬草の一種で、民間薬の処方に使う。池や湖に自生しており、赤緑色の丸い葉っぱが特徴的だ。根と見紛うほど長い蔓をあちこちに伸ばして、水に浮いている。
きっと今夜はその宿に泊まろう、とクナは思う。名前を聞いて気に入ってしまったのだ。調理器具が借りられるのも、拾った鍋しか持たないクナにはありがたい。
「あと、そうだな。薬屋なら薬草は買い取っているはずだ。ポーションについては街で開業届を出していないと、個人では販売が禁じられている。広場で屋台を出すにも臨時営業届が必要だ。
街の北にある、二階建ての茶色屋根の建物がギルドだ。そこでも、珍しい薬草は買い取っていたと思うが」
顎を撫でながら、中年男が教えてくれた。
クナが開業届など出していないことは丸わかりだからか、分かりやすい答え方だ。
(なら、まずはギルドかな)
ぽっと出の薬師を、薬屋の人間が快く迎えるとは思えない。クナの手持ちには珍しい薬草が多い。二束三文で買いたたかれるより、ギルドという未知の場所に期待を寄せたい。
「いろいろと教えていただき、ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げたクナは、ロイを連れて門をくぐる。
堅牢な石造りの門をくぐる。黒い髪を揺らすクナを見送り、門衛の二人は視線を交わした。
「……本当にあの子、『死の森』を越えてきたんですかね?」
「お前も、森から出てきたところは見ただろう」
年下の男に訊かれ、中年の門衛は溜め息を吐く。
ウェスからアコ村に直通するテン街道という長い街道がある。森を大きく迂回する道なので、南門ではなく東門に通じている。
大人でも歩いて半月かかる道のりだ。どちらにせよ、少女が子犬を連れて踏破したとは考えにくい。
「それにあの街道、今は閉鎖してるはずだ」
落石事故があって、再開通の見込みは未だ立っていない。
「……そうでしたね。ですが、どうしたって信じられませんよ。この森から出てこられた人間は、今まで片手で数えるほどしか居ないんですから……」
お互いにぎこちなく、頬のあたりが引きつっている。
二人とも、自分の目で見たのだから、クナを疑っているわけではない。それでも、信じがたいことというのはあるものだ。
ひょろりと痩せた体つきの少女だった。
薄汚れた麻の服は、他人のものなのか、絞れるくらいに袖や裾が膨らんでいた。年齢は、十三、四歳というところか。橙色の瞳は、容姿に見合わず冷徹なくらい鋭かったが、それ以外は平凡な子だ。
しかし彼女は、その名の通り『死の森』と呼ばれ、幾人もの魂を呑み込んできたおぞましい森を、たったひとりで乗り越えてきたというのだ。
どこか得体の知れない少女に圧倒されていた門衛たちは、しばらく経って、重要なことを思い出す。
「あっ、そうだった。君! 森の中で若い男を――」
そう彼らが切り出したときには、早足のクナは通りの向こうに消えていた。







