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ヘルジュは全身を蒸して温められたあと、何か塩のようなものやハーブのようなものを肌にすり込まれて、揉みしだかれることになった。
(……チキン料理みたい)
揉み込み、つけ込む過程でうっすらそんなことを思ったが、数時間に及ぶ調理でぐったりするころには、そういう無駄な考えも思い浮かばなくなっていた。
いろんな化粧品を塗られたおかげか、全身がつやつやもっちりに仕上がった。
楽しくて手の甲をつるつるとなで回して遊んでいたら、カジャにせき立てられて移動することになった。
「さ、奥様、お急ぎくださいませ。今度はドレスを選んでいただきますよう」
すでに疲れ切っていたヘルジュは明日にしてほしいと思ったが、カジャがそれを許さなかった。
有無を言わさず、肩口にドレスを少し通しては、どうかと質問してくる。
「こちらなど最新流行のサンドイエローとグレイッシュピンクでして、どちらもお若いお嬢様に大変人気があります。今年はクラシックなタフタ地よりも今少しファンシーなニュアンスの絹地が……」
(オトナっぽい色)
ヘルジュは意外に思った。彼の着ていた服はもっと強い発色だったので、ヘルジュもそうした色の服を着ることになるのかと思っていた。
(これなら、あまり目立たないからいいかもしれません)
ヘルジュは不安にせき立てられて、白っぽい灰色のドレスをつかんだ。その色はヘルジュにもなじみ深いものだ。着古した木綿は、洗濯のときの乾きが悪いと、このように黒ずんでくるのだ。あまりおしゃれだとも思えないが、貴族には新鮮に見えるのかもしれない。なにより、ヘルジュの身の丈に合っていた。
「これがいいです」
ヘルジュが言うと、カジャはすばやく着せたあと、寸法をメモ書きした。
「こちらはサイズ直しをして、当日までにお戻しいたします。明日はご主人様とご一緒にお買い物のご予定とうかがっております。ごゆっくりお休みくださいませ」
ヘルジュがやっと解放してもらえたとき、すでに外は真っ暗になっていた。
用意してもらっていた食事を食べて、気力体力を使い果たし、ほどなくして寝た。
翌朝も早くからたたき起こされ、目も開かないヘルジュがうつらうつらしている間にささっと髪と服を整えられてしまった。
朝食もそこそこにカジャともうひとりの若いメイドふたりがかりで馬車に押し込まれ、「いってらっしゃいませ」と手を振られる。
そちらに気を取られて、ヘルジュは少し油断していた。
男の人の大きな手がするりと腰に巻き付いてきたとき、完全に無防備だったので、口から心臓が飛び出そうなほど驚いてしまった。
「おはよう、ちゃんと眠れたか? 眠たそうにしているが」
猫かわいがりするエイノにはいまだに慣れない。
(今、目が覚めました……)
ぎぎぎ、と不自然な動作で見やれば、すぐ隣にエイノがいた。肩越しに目が合う。
エイノはうれしそうに吹き出した。
「ははは、なんだその顔は。まるでウサギだな。見るたび違う角度で可愛い顔をしているのが信じられない」
エイノがむやみやたらと褒めてくれるので、だんだん気恥ずかしくなってきた。
「あの……私、大丈夫ですから。そんなに気を遣って褒めていただかなくとも、普通にしていてくださったら、平気なので……」
とにかく困る、うれしいけど困るという気持ちを伝えたかったのに、エイノにはいまいち分かってもらえなかった。
「気を遣ってるつもりはないが……見るたびに小動物のようだと思っているのは本当だ」
「以前のエイノ様は、そのようなことおっしゃっていなかったではありませんか」
「言ってはいなかったな。思ってはいたが。ビクビクおどおど、大きな目で見上げてくるところなんかそっくりだ」
ヘルジュは言い返す気力を失って両手で顔を覆った。
商店街は屋敷のすぐそばだったので、あっという間に目的の通りへと到着し、歩道の前で降ろされる。
流行りの婦人小物を扱うお店のショーウィンドウには素敵なスカーフが何枚も何枚も、少しずつ色を変えながらグラデーション状に並べられていた。
「とりあえずパーティは何がいるんだったか? 女性小物には詳しくないから、店員に一式そろえてもらってくれ」
ヘルジュは店員さんの手助けを得ながら、昨日身にまとったドレスのおぼろげな記憶をたぐり寄せて、どうにか扇子と手袋、ストッキング、夜会用の髪飾り、それに首元にあしらうちょっとしたネックレスとイヴニング・ラップを選び出した。
さらに靴に留めるアクセサリを勧められ、ヘルジュは躊躇する。
今の時点で支払いは相当な金額に及んでいる。ドレスの裾に隠れてよく見えない靴の装飾品にそこまでかける必要があるだろうかと、生来の遠慮してしまう癖が出たのだ。
「正装する際には、お足元はキラキラさせるのが慣習でございますので」
「言われてみれば、そうかもしれないな。ではそれも。それに、コートもいるんじゃないか?」
「外出用のコートでございますね。お待ちくださいませ」
(ほんの一度か二度使うだけなのに)
すべての小物にたっぷりとあしらわれた外国産のレースと小粒真珠が、一度も踏まれていない新雪のように真っ白に輝いている。
きらびやかな装飾品の数々を生み出すのにかけられた途方もない手間暇を思うと、ヘルジュはくらくらしてくるのだった。
ヘルジュたちはお店を後にして、荷物を馬車に積み込んだ。
「少し見て回らないか? ほしいものがあればまとめて買ってしまおう」
エイノの提案で商店街の歩道をあてもなく歩いていると、ものすごい数の着飾った女性たちとすれ違った。
(領地に引き揚げる前は人っ子一人見当たらなかったのですが)
もうすっかり復興してしまったように見える。
黒い喪服姿の女性も散見されるので、まったくの元通りというわけではないようだったが。
ここのところ教会の鐘がよく鳴っているのも、死者への祈祷をお願いする人の数がそれだけ多いことを物語っているのだろう。
(激しい戦争でした。三年も続くほどの……)
今度の祝賀会にも、親しい人を亡くして参加できない人の方が多いのではないかと思うと、何も失っていないヘルジュにもこみあげてくるものがあった。
隣にいるエイノの横顔を盗み見る。
少し痩せた頬には、戦争出立前に『氷の騎士団長様』と呼ばれていたときには決して見られなかった憂いがあるように感じられた。
ヘルジュには実感などなかったので、この三年間も、エイノの無事など、表面的にしか願ってこなかった。
今頃になって罪悪感にさいなまれ、衝動的に口を開く。
「あ、あの、エイノ様」
「どうした?」
「ご無事でお戻りになって、よかったです」
エイノはしばらく何も言わなかった。ただ呆けたようにヘルジュを見ている。
(突然何を言うのかと思われたのでしょうか)
冷や汗をかいているヘルジュに、エイノは驚くほど優しい目つきをした。
「……私も、それを噛み締めていたところだった」
エイノが手袋に包まれたヘルジュの指先をぎゅっと握る。
その仕草にヘルジュは、この人も血の通った普通の人間なのだな、と、当たり前といえば当たり前の感想を持つに至ったのだった。
(『氷の騎士団長様』だって、戦争は怖い、恐ろしいもの、なのですよね)
そう腑に落ちたから、手を繋がれても、居心地悪く感じたりはしなかった。
ヘルジュにとっては初めてエイノを受け入れられた出来事だった。




