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「楽しかったことでもいい。何かないのか?」
ヘルジュが瞬間的に思い出したのは、森の狩猟番が珍しい子犬の赤ちゃんを育て始めたことだった。
「そういえば、猟犬小屋を管理しているおじいさんが、すごく真っ白でふわふわの子犬を育ててまして……」
「ああ、手紙でも書いていたな!」
(……うれしそうですね)
エイノが大受けしてくれたのに気を良くして、ヘルジュの口も少し滑らかになる。
「北の雪原では、敵に見つからないように、真っ白な体毛のわんちゃんがたくさん生まれるそうなのですが、その子も雪原から連れられてきたそうで、羊みたいにふわっふわで……私がその子に一目惚れして毎日通っておやつをあげていたら、『しつけに悪い』って怒られてしまって」
「お前の部屋で飼うと言ってもらい受けてくればよかっただろうに」
「エイノ様のおうちなのに、そんな勝手なことは……」
「まあ、ヘルジュならそう思うか」
エイノはチラリとヘルジュを見た。怒っているわけではないのかもしれないが、エイノのこの目つきにはまだ慣れない。笑っていてくれないと、三年前の冷たい人物を連想してしまうのだ。
エイノはヘルジュの内心を知ってか知らずか、マイペースに淡々と続ける。
「じゃあ、その子に子どもができたら、一匹譲ってもらおうか」
(子ども……子ども!?)
あの白くてふわふわの子犬を、ヘルジュにも譲ってもらえるというのだろうか。
「それとも犬を飼うのは嫌か?」
「い、いります……!」
ヘルジュが離婚して市井で暮らす際には、ぜひとも白い子犬を連れていきたい。
(ペットと一緒の生活なら、独り身でもきっと寂しくありませんよね)
大喜びのヘルジュは、このときも離婚を前提に将来を考えていたのだが――
エイノに手を取られて、驚きで息がつまった。
「一緒に育てよう。私も可愛がる」
ヘルジュはとっさに意味を理解できなかった。
「い、いえ、その子は、私の子なので……?」
一人暮らしの新生活に、エイノが入ってくる余地などない。
「何を言っている。二人で育てるのだから、二人の子だ。そうだろう?」
エイノがそこでヘルジュを窺い見た。
「……違うのか?」
そんなことを手を握られながら言われても、ヘルジュは困るばかりだった。
二人の子だなどと言われると、まるで本物の赤ちゃんの話でもしているかのようで、むずがゆい。
ヘルジュは落ち着かない気持ちから逃れようと、なんとか別の話題をひねり出そうとした。
「エイノ様は犬がお好きなんですか?」
「特別に好きなわけじゃないが、お前が欲しいなら好きになれるよう努力する」
どうもエイノの言うことがすんなり理解できない。
「それに、ヘルジュが犬と遊んでいるところはなかなか見物だろう。子犬が二匹いるようなものだ。きっと可愛い」
口説きまがいの言葉を口にして、ダメ押しに手の甲にキスまでもらってしまったヘルジュは、再び真っ赤になって押し黙ることになった。
(どうしてこう思わせぶりなのですか……っ)
戦争のストレスから解放されて気が大きくなっているのだろうか。それでヘルジュのような娘をからかって遊んでいるとか?
エイノはしばらくなんともいえない顔でヘルジュをじっと見ていたかと思いきや、突然がばっと抱きしめてきた。
「え、エイノ様……?」
「今の顔はよかった。だが隙だらけだな。お前は思っていることが顔に出すぎる。いちいち真っ赤になっていたら身がもたないだろう」
「それは、そうなのですが……え、エイノ様が、もう少し離れてくださったら、なんともないと思います……っ」
「それはできない相談だ。妻は好きなときに抱きしめてもいい。それが夫の権利というものだ」
ヘルジュは何も言い返せなくなってしまって、抱っこされるに任せることにした。
「ヘルジュのことを自慢してもいいか? 全員に可愛い妻をもらったと振れて回りたい」
「全員って、どこの、どなたに……」
「国王陛下に、私の部下に――」
「や、やめてください……!」
「そうか? まあ、二人だけの間で喋ったやりとりを勝手に人に話すのもな。お前が嫌なら内緒にしておく」
「そうしてくださると助かります……」
ヘルジュが無様にうろたえたり口ごもったりしているばかりでろくに喋れない娘だと暴露されてしまっては、もう恥ずかしくて宮廷になど顔を出せないではないか。
「あぁ――何度ももうダメかと思ったが、生きて帰ってきてよかった」
エイノは勝手にごろんと横たわり、ヘルジュの膝に頭を乗せた。
これが『氷の騎士団長様』だといって、三年前の自分に見せてやりたいとヘルジュは思う。絶対によく似た他人だと思って、信じなかったことだろう。
(調子が、おかしくなります……)
ヘルジュはただもうひたすら、早く解放されたいと思いながら馬車に揺られていたが、休憩に入ったのはその後数時間も経過してからだった。
◇◇◇
馬車でふたりきりの生活を何日も続けて、ヘルジュはすっかりへとへとになっていたが、エイノは元気になっていた。
「あの……本当に紡ぎ歌などお聴きになりたいのですか?」
遠慮がちに尋ねるヘルジュに、エイノはうなずいた。
「ヘルジュの歌声が聞いてみたい」
(ど、どうして私の歌なんて……?)
とてもふざけているのは伝わってくるが、『氷の騎士団長』が聴いて面白い物ではないだろう。
「あまりうまくありませんよ」
「暇つぶしだから、そんなに身構えなくていい」
抵抗はあったが、馬車旅は長い。ずっと黙っているのも気詰まりだ。
「では、少々……こほん」
修道院ではみんなで集まって針仕事をするときに歌を歌う。まったく面白いものではないとヘルジュは思うが、エイノはありがたがって拝聴していた。
「心に染み入る……」
エイノがうっすら涙ぐんですらいたので、ヘルジュは怯えることしきりだった。
(な……泣くほどのものではないと、思いますが……)
この数日、かなり濃密に交流を持ったように思うが、心で感じる彼との距離がさっぱり縮まらない。相変わらず何を考えているのか分からなくて、接しにくく、一緒にいると疲れてしまう。
ヘルジュが早く現地に到達してほしいと数百回は願ったあとに、ようやく馬車は王都の邸宅に到着した。
小国のため、僻地から王都までさほどの距離ではなかったが、ヘルジュには長い長い道のりだった。
着いてそうそう旅の垢を落とすようにと、メイドをつけられた。
「奥様、ご無沙汰しております。またお目にかかれてたいそううれしゅうございます」
にこやかに話しかけてきたのは、どこかで見覚えのあるメイド。茶髪で、少しそばかすがある。
「覚えていらっしゃらないかもしれませんが、私はカジャと申します。結婚式や戦勝祈願の儀式で奥様のお支度をお手伝い申し上げました。また雇っていただけてとても嬉しいです」
「ああ……あのときは、どうもありがとう」
「奥様にとてもご親切にしていただいたことはずっと忘れておりません! どうぞよろしくお願いします」
にこにこと言われ、ヘルジュは少しほっとした。知らない人ばかりに囲まれて、気が休まらなかったのだ。カジャのことはヘルジュも覚えている。とても気さくで優しい娘だった。
「奥様、本日は念入りに磨き立てるようにと仰せつかりましたので」
と言いながらカジャが取り出したのは、銭湯などで見かけるあかすりやマッサージオイルだった。その他、なんだかよく分からない小物がどっさりとキャスターつきのテーブルに載せられている。




