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エイノにそう迫られてしまっては、ヘルジュに断れるわけもない。
「分かりました。旦那様は償わなければならないようなことなど何一つなさってないと思いますが……それでお気が済むのでしたら」
ヘルジュは物わかりがいいふりをしてそう言い、内心でこう結んだ。
(そして気が済んだら、離婚のときの年金になるべくたくさん色をつけていただきましょう)
ヘルジュには、いずれ離婚するという意識が念頭にあった。
エイノはうれしげに笑み崩れた。
「では、しばらくよろしく。お前のように心優しい妻が持てて幸せだ」
ヘルジュはたいそうぎょっとした。
(エイノ様のご事情は分かったつもりですが、どうにも落ち着きません……)
戦争で生死を分ける戦いを経験して、もっと後悔しない生き方をしようと決意した。それ自体はいいことだと思う。ヘルジュもできる限り応援したい。
でも、やっぱり、こんなのは『氷の騎士団長様』じゃない、と心のどこかで思ってしまう自分がいた。
(……別人がなりかわっている……なんてことはありませんよね?)
もしもそうだったとしても、数度しか会ってないヘルジュには見抜けないかもしれない、などと考えていると、エイノはお茶を済ませて、さっさと立ち上がった。
「ではまた夜に。私は少し挨拶に行ってくる」
エイノはそう言い残し、慌ただしくどこかに行ってしまった。
(……なんだか、今日一日で、三年分ぐらいの疲れが)
単調ながらも穏やかで安定した毎日を過ごしていたヘルジュには刺激が強すぎた。
特にあのエイノの笑顔ときたら。
冷たいくらいに整った顔立ちが崩れる瞬間を間近で目撃してしまったヘルジュは、心臓が止まるかと思ったものだ。
(旦那様の笑顔は心臓に悪すぎます。ずっと見ていたらドキドキのしすぎで身体を壊してしまうかも)
あまり直視しないように気をつけようと心に決め、ヘルジュもお茶の席をあとにしたのだった。
◇◇◇
エイノはヘルジュと別れてすぐ、祖母に挨拶に行った。
エイノの祖母・シルヴィアは社交界から遠ざかり、田舎の屋敷で悠々自適の生活を送っている。
そのため、三年前の結婚のときにも、祖母の意見などは入れず、ほぼエイノの独断でヘルジュと結婚した。
シルヴィアとヘルジュの顔合わせなどもろくにせず出立したため、ふたりの関係はかなりの確率でこじれているだろうとエイノは見ていた。
まず、シルヴィアは癖が強い。
生意気な若い娘が大嫌いで、メイドも次から次に嫌がらせをして追い出すような人なのだ。
ぽっと出の娘を新妻として放り込めば、どうなるかは目に見えていた。
祖母の存在が、おいそれと簡単に令嬢を嫁に迎えられなかった理由でもある。彼女の仕打ちに耐えられるのは、模範的な修道女ぐらいだろうと思っていた。それこそヘルジュのような。
エイノはシルヴィアの部屋の前で少しためらった。会うのが億劫だ。顔を見た途端、容赦なく三年分の文句を言ってくるだろう。
覚悟を決めて、午後のお茶を嗜んでいる彼女のもとを訪問する。
「戻ったのですね」
お疲れ様も、久しぶりの再会を喜ぶ言葉もない。不機嫌にエイノの顔を見ただけ。
エイノは幼少の頃に、両親よりもこの祖母にそっくりだと言われて育ったが、あながち的外れでもないと自分でも思っている。
若い頃はたいそう美しかったという祖母だが、長い年月を眉間にしわを寄せて不機嫌に生きてきたため、今ではその顔で固まってしまっている。
「はい、おばあさま。すぐに王都へ戻る予定ですが」
「あの娘はどうするのですか?」
シルヴィアが心底嫌そうに、名前すら呼ぶのも億劫だという態度で尋ねてくる。
「王都に連れていくつもりです。おばあさまにはご面倒をおかけしまして」
「お前の説明では、離婚する、財産は一切渡さない、ということでしたが」
エイノは出立前、シルヴィアに新妻をそのように紹介した。そうとでも説明しなければ、この偏屈な女性はヘルジュを苛め抜くだろうと考えてのことだった。
「ええ、そのつもりでおります。おばあさまがご心配するようなことは何も――」
「お前ね、いったいどういうつもりなのですか!?」
耳をつんざく大声で怒鳴りつけられ、エイノは苦い気持ちになった。
「ですから、おばあさまが心配せずとも、公爵家の資産を横取りなどはさせませんので――」
「お前、そこにお座り!」
シルヴィアの命令は絶対だ。
エイノはしぶしぶ手近な椅子に座った。
「いいこと、結婚は女にとって一生を左右する命綱なのですよ!? それをお前は手前勝手にろくに披露宴もあげずに結婚して――三年もほったらかしにした挙げ句、何も持たせずに離婚するなどと、よくもまあ抜け抜けと言えましたね! 恥を知りなさい!」
シルヴィアの怒声に、エイノは自分の勘違いを悟った。
どうも、財産が目減りすることを怒っているわけではなさそうだ。
「あの娘はお前の悪口などひと言も口にしませんでしたよ。お前の鬼畜にも劣る所業にどれほど傷ついたかなど、わたくしがどれほど水を向けても一切こぼしませんでした! それだけでも立派な、見上げた娘じゃありませんか、ええ!? それをお前は無一文で放り出そうなどとよくもまあ言えたものですね! 人の心はないのですか!?」
えらい剣幕だ。エイノはようやくことの次第を理解した。
(つまり、ヘルジュが気に入ったのか)
この気難しい老婆がここまでヘルジュに肩入れするとは、意外なこともあるものだ。
ヘルジュは可愛らしいが、シルヴィアの嫌いそうなタイプだと思っていた。幼く愛らしい外見も小動物似なら、周囲の様子にビクついている内向性の高さなども小動物そっくりで、そこがエイノには可愛らしく映るのだが、シルヴィアは態度のはっきりしない小娘と相性が悪かったはずだ。
「お前があの娘に何も持たせないというのなら、いいでしょう。このわたくしが手段を問わずにお前を家から追い出してやります! 二度と公爵家の敷居をまたげないものと心得なさい!」
(当主は私なんだが)
とはいえ、この老婆のことだから、本気でエイノをたたき出しかねないのもまた事実。
「……おばあさま、分かりました」
エイノはほどほどで、反省したような態度を見せることにした。
「私が愚かでした。確かに、女性には酷なことをしてしまったと今更ながら気づきました。さすがはおばあさまです。私の至らない点をご指摘いただきありがとうございます」
エイノの謝罪にはいまいち心がこもっていなかったが、シルヴィアのお説教を止めるだけの効果はあった。
「手始めに、彼女には三年も放っておいたことを償いたいと思います」
「ほう。それで?」
「もしも彼女からお許しがいただけるようであれば、離婚は取りやめにしようかと」
「よろしい」
シルヴィアのお墨付きをもらい、エイノは、やれやれ、と思った。
「まずはヘルジュを説得しなければなりませんので、しばらく王都でゆっくり話し合おうと思っています。幸いいくつか若い女性の喜びそうな催し物にも呼ばれておりますので、楽しんでもらえればと」
「いいではないですか。ぜひそうしなさい」
「それではさっそく、今日明日にでも出立します」
――急すぎるというようなことをなおもくどくど説教したがるシルヴィアをなだめすかして、エイノはなんとかシルヴィアの了解を取り付けたのだった。
「せっかくですから、おばあさまもたまには王都にいらっしゃいませんか?」
これは完全に義理での声かけだった。
祖母は社交界のいざこざを嫌っているので、まず出てこないだろうと考えていたのだ。
「いいでしょう」
彼の予想に反して、シルヴィアはうなずいた。
「お目付役の年寄りがいなければ始まらないでしょう、ああいう鈍くさい小娘は。本当に要領が悪くて手のかかる子だこと」
悪態をつくシルヴィアの口調には楽しそうな色が見え隠れしている。この根性曲がりの老婆が誰かを構いたがることなどめったにないため、エイノはあっけに取られてしまい、ついてこられても困ると言いそびれてしまった。
かくてエイノとシルヴィア、ヘルジュの王都行きが決まったのであった。




