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喜び勇んだ声で甘やかに囁かれてしまっては、年金への期待ではしゃいでいたヘルジュも形無しだ。
「戦争中、ずっとお前のことばかり考えていた。そろそろ離縁されて実家に戻っているかもしれない、今週こそ手紙が来なくなるかもしれない、と、益体もない心配ばかりしていた」
抱きしめながら言う人物を、ヘルジュはぽかんとして見つめる。
はて、この男は誰だろうなどと考えてしまったのだ。
『氷の騎士団長様』と呼ばれ、実際にヘルジュには冷酷な態度しか見せなかったエイノと、顔と声は酷似している。どうやら本人らしいと会話でも確認はした。しかし、どうしても記憶の中のエイノと、目の前のエイノの人となりが重ならない。
「三年前より美しくなったな。外見がどうこうというわけではないが……表情や仕草が明るくなった。屋敷では問題なく過ごせていたか?」
「え……ええ、もちろんです。王都では食糧不足で大変だったようですが、こちらではとてもよくしていただいていて――」
(だから、いつ離婚していただいてもかまいません)
と、続けようとした言葉は、途中で呑み込むはめになった。
「よかった。私もなるべく早く落ち着いて生活できるようにする。今まで苦労をかけたな。あとは私に任せてくれ」
満面の笑顔で言う男に違和感が拭いきれず、ヘルジュは思わず「あ、あの」と声に出してしまった。
「……旦那様は、お戻りになったら、私と離婚するおつもりだとうかがっておりましたが……」
エイノはヘルジュの言葉を軽く否定した。
「あれはまったく本心ではなかったんだ。おいおい説明するが、事情が込み入っていてな。ああするのが一番いいと判断した。他にもずいぶんと酷なことを言ったと思うが、許してくれるか?」
許すも許さないもない。だってヘルジュは、エイノに何の期待もしていなかったのだから。
「戦争は終わった。これからは私の好きにさせてもらう」
楽しげに宣言するエイノの肩を、ヘルジュはたしたしと控えめに叩いた。
「……と、とりあえず、降ろしていただけませんか……」
ずっと抱き上げられたままで、恥ずかしかったのだ。
◇◇◇
(旦那様が豹変してしまった)
それがヘルジュの偽らざる本音だった。
戦争出立前、エイノがヘルジュに話しかけたのはほんの数度。
そのときのエイノは、いつもヘルジュを冷ややかに見ており、笑顔なんて一度も見せたことがなかった。
(氷の騎士団長様のお名前通りの方だったのに)
帰還してからのエイノは別人かと思うほど優しく微笑みかけてくれる。
エイノは改めてヘルジュとお茶の席を設けながら、「実は」と、内緒話を切り出した。
「厳しい戦争でね。私はストレスで神経をやられてしまって、最後の方にはヘルジュからもらう手紙だけが心の支えだったんだ」
ヘルジュはつい首を傾げてしまう。手紙。確かに書いた。週に一度以上のペースで、熱心に。でもそれは、シルヴィアに『前線で戦っている夫をねぎらい、屋敷のことを事細かに報告しろ』と言われていたからだし、実際、ヘルジュが監視することで、主人不在時の使用人たちがどのように生活しているのかを知れたら役に立つだろうと思ったからだった。
心の支えになるようなことなど何も書いていなかったと思う。
「何度ももう諦めて死のうかと思ったが、死ねばお前にも戦火が及ぶと思って踏みとどまった」
「それは……ありがとうございます」
やはりシルヴィアは正しかったのだと、ヘルジュは尊敬を新たにした。シルヴィアから注意されなければ、気の利かないヘルジュには一生手紙を送るなどということは思いつけなかっただろう。
「それに、まあ、何だ。お前の手紙はちょっと変わっていたな。新しくひよこが生まれただとか、羊の赤ちゃんが風邪を引かないように洋服を編んだとか……やるかやられるかの瀬戸際で、猟犬小屋に新しい子犬が増えた話を読まされる私の気持ちが分かるか?」
ヘルジュはぶわりと冷や汗が湧く思いだった。
言われてみれば、彼は戦争をしに行っていたのだ。銃弾が飛び交う戦場を行き来している人に、猟犬小屋やら馬小屋やらの話を書いて送ってどうするというのか。『人が苦労しているのも知らないでのうのうと』などと怒られても仕方のない、配慮に欠けた態度だ。
でも、公爵領はのどかな田園風景のど真ん中にあって、そのぐらいしかニュースはなかったのだ。
「その……とても……場違いで……申し訳ありません」
「責めているんじゃない。ヘルジュが楽しそうにやっているのが筆致ににじんでいたから、私もギリギリで正気を保てていたんだ。ずっと礼を言いたいと思っていた。ありがとう」
(怒っているのでしょうか……)
ヘルジュはおそるおそるエイノの顔色をうかがってみたが、よく分からなかった。出立前のエイノは、ヘルジュにかけるポジティブな言葉はみんなイヤミか皮肉かというくらい冷たい印象の人だったから、この『ありがとう』も、やはり何らかの皮肉だと考えるべきなのだろうか。
焦ってじっと見つめても、エイノの顔色からは何も読み取れない。
「……どうした? 何か気になることでもあるのか?」
「いっ、いえ……! じろじろ見るようなはしたないまねをして申し訳ありま」
「だから怒ってないと言っているだろう。なぜそんなに怯える?」
(だって、怖いんですもの)
何を考えているのかまったく読めない。だから恐ろしいのだ。
「……旦那様は、もっと、節度のある態度を取れる女がお好きだと存じておりましたので……」
「ああ……確かに、以前の私はそうだったかもしれない。女性に限ったことではないが、私自身も、節制を第一に心がけていた。感情を表に出すのはみっともないことだと思っていたからな」
(一応、変化にご自覚がおありでいらっしゃった)
そのことに安堵しつつ、ヘルジュはこわごわ尋ねる。
「ではいったい……どのような心境の変化が……?」
ヘルジュがかたずを呑んで見守る中、エイノは少し気まずそうに告白を続ける。
「何と言ったらいいのか……戦争で死にかけたときに、何か、これまで私の心を押し込めていたフタのようなものが壊れてしまってね」
エイノの言葉に嘘は感じられなかった。冷たい灰色の瞳は少し気恥ずかしそうに逸らされている。以前の彼なら絶対にしなさそうな表情だ。
騎士ならばともすれば軟弱だと厳しく矯正されそうな仕草だが、そこに人間らしさが出ていて、ヘルジュはうっかり好感を抱いた。
「ここで死ぬくらいならもっとああすればよかった、こうすればよかったと、後悔するばかりでもどかしかった。お前も心残りのひとつだったんだ。私が戦死したときのことを考えれば中途半端に情けをかけるのはよくないだろうと思って、あえて感情を排して接していたつもりだったが、怯えているのがずっと心に引っかかっていた。しかし、仲良くなりかけた矢先に死なれては、残されるお前は再婚するにしろ何にしろ、さぞ後味が悪かろうとも思ってな」
(あの冷たい態度の裏で、そんなことをお考えだったなんて)
確かにヘルジュは、寂しいと思っていたし、ヘルジュに辛く当たるエイノに恨みがましい気持ちも多少抱いていた。
それでもこうして裏話などを聞かされてしまうと、もともと大して酷い目に遭わされていないのもあってか、あるかないかの恨みもあっという間に氷解していくような感じがした。
「ヘルジュがまだ私の妻でいてくれてよかった。愛想を尽かさないでいてくれてありがとう」
「い、いえ、そんな……」
「償いをさせてもらいたい。しばらく私に時間をもらえないか」




