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戦地の様子は新聞が続々と教えてくれている。
味方陣営は周辺諸国と協力して、東の大国を追い払い、脅威を少しずつ取り除いている。
エイノたちが死線をくぐり抜けて、母国を勝利に導いたのだ。
総合的には勝利したものの、王都の様子も決して安泰とはいかなかった。
戦時の物資不足で食糧難になり、王都は飢えた人であふれかえった。食べるものを求めてヘルジュも領地に戻ったため、それ以降の様子は手紙と新聞でしか知らない。ヘルジュが元いた修道院からも大量の死者が出たという手紙を読んだとき、背筋がぞくりとしたのを覚えている。仮初めの妻とはいえ、公爵家に間借りさせてもらえていなければ、今頃ヘルジュはどうなっていただろう。
(私は運がよかったのですね)
エイノに拾ってもらえたことを感謝しなければならない。
王都内の物資不足は深刻だったが、エイノの領地でなら、なんとかヘルジュたちが口にできる分の収穫物を確保できた。
ヘルジュは毎食欠かさずいただき、暖房も十分につけてもらっていた。修道院とは比べものにならないくらいの待遇だ。
ヘルジュはいつもの郵便屋さんにエイノ宛ての手紙を渡してから――戦地で苦労している夫にねぎらいの手紙ぐらい出すべきだと彼の祖母から叱られたので――食事を恵んでもらったことの礼を、叱った当人に述べた。
「いつもありがとうございます」
そう告げると、祖母・シルヴィアは少し怪訝そうにした。
「まもなく旦那様もお戻りになると新聞で読みました。これまで私が何事もなくやってこれたのもシルヴィア様のおかげ……」
ヘルジュが言い終わらないうちに、シルヴィアが気難しい印象そのままのとげとげしい話し方で聞いてくる。
「あの子は戻り次第お前を離縁するつもりでいるようですが、それでいいのですか?」
もとよりそのつもりだったので、ヘルジュに否やはない。ただ、暗闇に投げ出されるような寂しさと、足下が脆くも崩れていくような心許なさがある。
シルヴィアはそこで少し語気を和らげた。
「……私は三年もお前の使えなさにやきもきしましたから、お前が無能でも分をわきまえた娘であることは知っていますよ。けどね、用済みになったから修道院に帰れと命じられて、はいそうですかといいなりになるのは、あまりにも……」
シルヴィアはヘルジュが黙って聞いているので、少しやりにくそうに言葉を切った。
「とにかく、お前はぼんやりしていて何でも人のいいなりになるのですから、今から言うことを覚えておおきなさい。あの子に離婚を申し渡されたら、条件に年金くらいはつけるように言うのですよ」
「ねん……きん?」
「毎年の決まった時期にまとまったお金を送ってもらう、という契約です。お前は贅沢などしないでしょうから、十分に市井で暮らしていけることでしょう」
(……それって、自由に生きていいということ?)
ヘルジュはもともと修道院に行く以外の身の振り方を知らなかった。貴族の令嬢が市井で生きていくのは非常に難しいものなのだ。
「……エイノ様やシルヴィア様にはとてもよくしていただいたから、あまりご無理を言って迷惑をかけるつもりはありません」
シルヴィアは眉間にしわを寄せた。もっとも、いつも怒ったような顔をしている老婦人なのだが。
「お前のそれはイヤミですかと言ってやりたいところですが、愚かでどうしようもない娘でも、心の底からそれが言えるのが唯一の美点なのでしょうね。まったく」
シルヴィアは呆れているが、見せかけほど怒っているわけではないということを、ヘルジュはこの三年間で学んでいた。
三年。長い年月だった。この間、修道女になるのを引き延ばしてもらえただけでも、十分すぎるぐらいの報償だというのが、ヘルジュの素直な気持ちだった。
「でも……もしもエイノ様が私を哀れと思し召してくださるのなら、修道女に戻る以外の……小市民として暮らす道を示してくださったらいいなと思います」
もしも年金をもらうことでそれが可能になるのなら、ヘルジュにも、生きる道が見えてくる。あの寒い修道院に戻らなくてもいいなら、絶対にその方がいい。
「そうね。私もそうするのがいいと思いますよ」
「ありがとうございます」
「女にとって結婚は一生を左右する重要なイベントです。理不尽な結婚を受け入れてやったのですから、堂々と権利を主張しなさい」
シルヴィアの励ましを受けて、ヘルジュはエイノの帰還を、今か今かと待ち構えることになった。
エイノはそれから数日後に王都へ凱旋し、パレードを行った。
ヘルジュは体調不良を理由に欠席して、地方の屋敷でじっと待っていた。
(今頃、エイノ様は国中から祝福してもらっているのでしょうね)
宮中の行事はすべて欠席しろとあらかじめ言われていたため、ヘルジュが参加できなかったからといって失望するようなことはなかったが、戦時の食事制限が激しかった分、豪華な宮廷料理だけは少し食べてみたかったなと、ご馳走を惜しんだりはした。
(あと少しの辛抱で、旦那様にお目にかかれるのですね)
ヘルジュはエイノとの再会が楽しみだった。
以前は会えば修道院に戻されてしまうと思って憂鬱だったが、今は違う。条件を交渉することもできるのだと、シルヴィアに教えてもらった。
(お会いしたら、始めになんて言おうかしら)
期待に胸膨らませるヘルジュのもとに、エイノはなかなか姿を現さなかった。
やっと顔を見せたのは、凱旋式からしばらく経ったあとだ。
帰還が一夜延びるごとに『お前になんか興味がない』と言われているようで少し辛かったが、ヘルジュはともかくエイノがきてくれたことがうれしかった。
「旦那様、お帰りなさいませ!」
はしゃいでしまったのも、これで自由と年金が手に入るかもしれないという将来への期待からだった。
熱烈な歓迎が意外だったらしく、エイノは驚いたように目を丸くした。
「お前は……」
「ヘルジュです。あなたの仮初めの妻でした」
(そしてこれからは、自由を手にする女です)
――などと格好つけて続けたくなるくらいに、ヘルジュは浮かれていた。
「すまない、三年前とはだいぶ印象が違ったから、少し自信がなかった」
お詫びを言われて、ヘルジュは面食らう。さらに続く言葉で、驚愕した。
「だが、お前がヘルジュだということは一目で分かった。ただいま――私のシファ」
エイノは出立前よりもずいぶん痩せていた。以前はともすると女性のようにも見えるくらいすっきりと整った頬のラインをしていたのに、今ではすっかり厳格そうな軍人に見える。
(印象が違うのは、お顔の肉付きが変わったせい? ううん、でも……)
物思いは長く続かなかった。
エイノが突然、涙を流し始めたのだ。
痩せて精悍さを増した頬に、声もなく涙がしたたり落ちる。
(きれい……なんて、言っている場合ではありませんよね)
「だ、旦那様……? いかがなさいましたか?」
「驚かせてすまない。戦争で少し神経をやられたせいか、涙もろくなっているらしくてね。生きて戻れたと実感したら、急に気が抜けてしまった」
「そ、そうでしたの……」
よほどの激戦区で死闘を繰り広げてきたのだろうかと想像してみるヘルジュだったが、それも長くは続かなかった。
エイノが軽々とヘルジュを抱き上げたからだ。
「また会えたことを嬉しく思う。今生の別れになるとばかり思っていた」




