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何のことだかよく分からなくて、ヘルジュはエイノに差し挟まれたままの頬をわずかに傾けた。
「いや……では、ないので……?」
「……それを言ってしまうのか」
エイノは呆れたように表情を険しくさせた。
「知らんぞ、私は警告したからな」
何を怒っているのだろうとヘルジュが思っていると、いきなり胴体を担ぎ上げられた。目を白黒させているうちに、すとんと膝の上に載せられてしまう。
「……とはいえ、私としても手に余る。お前のように小さくて幼気な娘にそうそう無茶などさせたくはないが、お前はどう思う?」
「どう、とおっしゃいましても」
むしろヘルジュの方が問いたい。どうして膝などに載せたのかと。
ぴったりとくっつかれて、早くもヘルジュは降参したくなってきた。こんな状況で難しいことを聞かれても、何も分からないのだから。
膝抱っこだけでも恥ずかしいのに、さらにエイノはヘルジュの顎を持ち上げて、目を合わせることまで強制したからたまらない。
喉の奥から悲鳴がせり上がりかける。どうしてもまっすぐにエイノを見られない。
「……なぜそう顔を背ける?」
「え、と、あの、は、恥ずかしくて」
「降ろしてはやらんぞ。私の気が済むまでぬいぐるみとして抱きかかえられてもらう」
「ぬいぐるみって……」
「小さいものを抱きしめていると落ち着かないか?」
「え……と……はい」
「それと同じだ。お前を抱くことによって癒やし効果がある」
「そうなんですね……?」
「そうだ。ただでさえ私は不眠気味だからな。妻であるお前には私を癒やす義務がある」
ヘルジュはハッとした。最近、自分が『エイノの側にいたい』という欲求ばっかりで、エイノが辛い過去に苦しんでいることをすっかり忘れていた。
(私、エイノ様を治してさしあげなければ……っ)
にわかに使命感をかきたてられたヘルジュは、ぴとっとエイノにしがみついた。
「……なんだ? 今度はコアラの真似か?」
「こあら……?」
「そういう珍しい動物がいるんだそうだ。今度動物園にでも連れていってやろう」
「動物園……!」
たのしそう! と思っていたら、エイノが笑い出した。
「……少し頭が冷えたよ。お前はまったく可愛いな。私を癒やすことにかけては天才的だ」
「私、お役に立てているでしょうか……っ」
「ああ。もう一生手放せないくらいにな」
エイノの優しい語り口がひたひたと心に沁み入る。蜂蜜のように甘い気分をかきたてられて、ヘルジュは声もなく赤面した。今日はもう何度もエイノにドキドキさせられている気がする。
「……戦勝記念のパーティラッシュも、夏頃には落ち着くはずだ。終わったら、今度こそ旅行に行こう」
南国に連れて行ってくれると、他でもないエイノが約束してくれた。
ヘルジュはエイノの胸にぴっとりと頬をくっつけて、幸せな気持ちで返事をした。
「はい」
◇◇◇
「私、ダンスをしてみたいです」
エイノに告げてから、しばらく後の舞踏会で、ヘルジュはようやく機会を得た。
「身内だけの集まりだから、そんなに堅苦しくない。手始めにどうだ?」
エイノがプログラムの曲目からひとつを指さしてくれる。
それは異国のフォークダンスをこの国風にアレンジしたもので、子どもでもすぐ覚えられるものだった。ヘルジュも何度かレッスンをして、簡単なものを教えてもらったのだ。
陽気なヴァイオリンとフルートの音に合わせてみんながくるりと輪になる。そこに混ぜてもらって、クルクル回るだけでも楽しかった。
飛び跳ねまくって息を切らせているヘルジュに、エイノが微笑んでくれる。
「楽しめたか?」
火照っている頬を優しく撫でて、彼はいよいよおかしそうに声を立てて笑った。
「聞くまでもなかったな。目が生き生きしている」
そう言うエイノも、ヘルジュにはとても瞳がキラキラしているように見えた。
「今日はよく笑ってるな。お前のそういう顔が見たかったんだ。連れてきてよかった。ダンスの苦手意識はなくせたか?」
「はい、あの、えっと、難しいステップでなければですけど……」
「踊りたい曲だけ踊ればいいさ。ヘルジュが楽しければいい」
「さっきのは、とても楽しかったです」
「なら言うことなしだ」
エイノは感慨深げに眉間にしわを寄せ、目を閉じた。
「しかしお前は歩幅まで小さいんだな」
しみじみと言われてしまい、ヘルジュは楽しかった気持ちがちょっとしぼんでしまった。
「あ、あの、やりづらかったでしょうか……すみません」
「そうじゃなくて、なんだか感動したんだ。多少の失敗は私のせいにしておくといい。歩幅が合わなすぎてうまく踊れなかったとな。それにしてもヘルジュは小さい」
小さくても何もいいことはないとヘルジュは思ったが、どうやら喜んでいるようだった。
「ちょこまか跳ねて嬉しそうに目を輝かせてるお前を見ていると本当にこう、なんというか、愛おしくなってくるな」
人前だというのに大胆なほどぎゅっと抱きしめられ、ヘルジュはせっかく冷めかけた熱がまた頬を温めるのを感じた。
「可愛いな、まったく私の妻は人の心をくすぐるのがうまい。構ってみたくてたまらなくなってくる」
エイノは頬やこめかみに口づけて、思うさま親しげに背中をなでさする。
ヘルジュはエイノに構われるのが好きだったので、しばらくされるがままになっていた。
「まだ踊れるか?」
「はい。エイノ様と一緒にぐるぐるするの、とても楽しかったです」
「そうかぁ、楽しかったかぁ」
エイノは実に嬉しそうに相貌をゆるめ、猫なで声を出した。
「よかったなぁ、お前が苦手意識を克服できて、私も自分のことのように嬉しいよ」
デレデレのエイノに手放しで喜ばれて、ヘルジュは照れくさいながらも幸せな気持ちが伝染して、一緒ににこにこしてしまった。
難しい踊りをパスしようと壁際に戻ると、女性が楚々とした仕草で近づいてきた。
年はヘルジュと同じか、少し上くらいの女性だ。
「騎士団長様、よかったらわたくしとも踊っていただけません?」
「……だと。どうする?」
エイノに聞かれて、ヘルジュは戸惑いを隠せない。
「私には構わず、楽しんできてください……っ」
ヘルジュが勧めても、エイノは動かなかった。
「そうか。行っちゃダメ、と言ってくれたら嬉しかったんだが」
「そんなこと……」
「お前のそばにいたい私の気持ちを汲み取ってくれてもいいだろうに」
エイノがうそぶいてヘルジュに親愛のハグをしたところで、声をかけてきた女性がふふっと笑った。
「あら、お邪魔してしまったようですわね。おふたりの仲良しに貢献できて光栄ですわ」
「すまないね、私の予約はずっといっぱいだ。父上にもよろしく伝えてくれ」
「いえいえ、ごゆっくり楽しんでらして」
品良くお辞儀をして去っていく女の人の、見事にくりぬかれたドレスの背中を見つめながら、ヘルジュは疑問を口にする。
「エイノ様はどうして舞踏会で結婚相手を探そうと思わなかったのですか?」
普通はそうするものだろうと思っての質問だったが、エイノは軽く肩をすくめただけだった。
「気に入った娘がいればとは思っていたが、見つからなかっただけだ。三十近くまで結婚しない男などザラだから、焦る理由もなかったんだが、戦争で事情が変わってな」
出会ったときにも似たようなことを言っていたことを思い出し、少しぼうっとしたヘルジュに、エイノがいたずらっぽく頬へのくすぐりをしかけてくる。
「でも、おかげでお前に逢えた」
ヘルジュは片目をつぶってくすぐったいのから逃げつつ、苦笑した。
「誰でもよかったのでしょう?」
「撤回するよ」
広間には上品な舞曲が流れていて、紳士淑女が長い裾を翻して踊っている。
エイノはしっとりしたメヌエットに似合う綺麗な所作で、ヘルジュの手を取った。
「お前以外には考えられない」
ヴァイオリンの美しい音が重なり合い高まる。
ヘルジュも楽の音に負けないくらい高鳴る鼓動を服の上からぎゅっと押さえた。
エイノと結婚したとき、きっと生涯、誰とも心を通わせることなどできないのだと思った。
でも今は――
彼とならきっと幸せになれる。
うっすらと浮かぶ涙はこぼれ落ちずにいつまでも瞳にとどまり、ホールの明かりをより一層輝かしく見せてくれたのだった。
これにて完結です。
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