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ヘルジュは小さくうなずいて、手元に視線を落とした。昔の記憶が切れ切れに蘇る。冬の空、石の壁、ひたすら床を磨き、洗濯をして濁った水に手をつけていた毎日。灰色の思い出の狭間に、晴れの日の荘厳な儀式があった。
「私は六歳のころから修道院に預けられていて……修道女になれる年齢に達したらすぐになるはずだったのです」
カジャは考え深げに口を開く。
「そうなのですね。私は修道院に行ったことはありませんが、奥様がしきりと気にしていらしたことの原因は、その中にあるのではないかと思いまして」
「雑用ばかりしていたので、外の世界のことはあまり知らなかったのです。出る予定もありませんでしたから、無教養で」
あまり面白い話でもないだろうに、カジャは辛抱強く聞いてくれた。
「森と雪が私の知る外の世界のすべてでした。それが当たり前だと思ってたんです。でも、街にはきれいな色の服がたくさんあって、公園にはカラフルなお花がいっぱい咲いていて、真っ白なもふもふの犬もいて、おいしい食べ物もたくさんあって……」
空を横切る鳥の群れに目を奪われる。空はもう灰色ではなかった。青く澄んだ大気は、冷たさもあいまって、ヘルジュにすがすがしい気分を運んでくれた。
「それに、エイノ様のおそばにいると、とてもドキドキして……」
目を閉じれば姿が浮かぶ。優しくヘルジュの手を取って、公園の平たい敷石を歩かせてくれたエイノ。一歩一歩ヘルジュの歩幅に合わせて、ゆっくり進んでいくのは退屈だったろうに。
(私なんかのために、どうしてあんなに優しくしてくれるのかしら)
エイノの何気ない親切に触れるたびヘルジュはきゅっと胸が痛くなる。目を合わせると指先まで痺れたようになって、時間を忘れてあの綺麗な灰色の瞳を見つめてしまう。長い夜が明けてわずかに日が射したときの、ほんの少し甘い温かさが混じった空の色。
「あんなにも誰かを好きだと思えたのは初めてなの」
エイノは先のことをたくさん約束してくれた。犬を飼って、新婚旅行に行って――公園でお花を摘んでみたいとだだをこねたヘルジュに、それなら今度の冬は南に暖を取りにいこうと言ってくれた。
『もっと色んな場所に行こう。南の国にはこんな花がいくらも道ばたに生えているんだ。雪だってめったに降らない』
そうなれたら幸せだと、ヘルジュは約束のたびに夢のような光景を思い浮かべた。エイノが見せてくれる光景は、どれもキラキラしていて色鮮やかで、冬の色に閉じ込められていたヘルジュには魔法のように思える。
でも、本当は、特別な理由なんかなくたって、エイノがいてくれればいいとも思う。何でもない日常をエイノと過ごせれば、それで。
それこそが途方もない贅沢だと、ヘルジュは思うのだ。
カジャは黙って聞いていてくれたが、やがて微笑みながらうなずいた。
「きっと旦那様も同じお気持ちだと思います」
そうだったらいいなと、ヘルジュは逸る心を抑えて思った。
◇◇◇
ヘルジュは夜、応接間の大きな暖炉に椅子とテーブルを寄せて、火を頼りに編み物をせっせとこなしていた。テーブルには編み目のデザインパターンを記した紙がある。
エイノが綺麗な毛糸をたくさん買ってくれたので、模様のある編み物をしてみようと思い立ったのだ。
(む、難しいです……)
悪戦苦闘していると、暖炉の前で同じように黙々と手を動かしていたシルヴィアが指をさしてきた。
「そんなに頻繁に図を確認しながら編んでいたのではガタガタになりますよ。あらかじめ先まで覚えておいてから編むのです。……このように!」
シルヴィアがシュバババッ! とすばやく編み棒を操りながらひと息に一段編み終えてしまったので、ヘルジュは尊敬のまなざしを送った。
「シルヴィア様、すごいです……っ!」
ふふん、と得意げな顔をしたシルヴィアに、ヘルジュは一瞬エイノの面影を見出した。
(血がつながっていらっしゃるのですね)
そう思うとシルヴィアの少々高飛車な振る舞いも可愛らしく見えてきた。
「お前は基礎ができているのですから、パターンを覚え込むことを第一に考えなさい。覚えさえすれば自然と編み上がるでしょう」
「は、はい……っ」
シルヴィアの指導のもと、ぶつぶつと『三目編んで二目赤、五目編んで……』と記憶に定着させようとしていたら、ドアが開いた。
エイノがちょうど来たところで、ヘルジュの姿を認めて、そばに寄ってくる。
「……さて、私はそろそろ寝るとします。お前も夜更かししないで早めに寝るのですよ」
「はい、シルヴィア様」
シルヴィアは面白くもなさそうに孫に流し目をやり、ふんと顎をそびやかしてすれ違いに出ていった。
エイノは冷気から身を守るようにして肩をすくめた。
「夜は冷えるな。寒くはないのか」
「暖炉がありますから」
エイノが「どれ」とつぶやいてヘルジュに手を伸ばす。編む手を止めた上に手のひらを重ねて、ぎゅっと握り込んだ。
「こんなに冷えてるじゃないか」
「あ、あの……大丈夫です、全然、編み針も動かせていますし」
ドギマギしてしまっているヘルジュの手を、エイノは引っ張り上げた。自らの頬に押し当てる。触れた肌が温かくて、ヘルジュはドキドキした。
「やっぱり冷たい。火鉢でも増やそうか? 指先を温めるには何がいいんだろうな」
エイノとほぼ真正面から見つめ合う形で美しい声をひそめられてしまっては、ヘルジュになす術などない。馬鹿みたいにのぼせ上がって、聞き惚れてしまう。
「手袋か? いやしかし、手を使うのだから無理か。もっと部屋を暖められればマシになるか?」
(エイノ様はお声も素敵)
低くて男らしいのに、胸をくすぐるような甘い響きを持っている。
ぽーっとしているヘルジュをよそに、エイノはさらに続ける。
「家の壁にも綿などを挟むと暖かくなると聞いたことがある。いっそ建物から作り直してしまおうか」
聞き捨てならない過激な案が飛び出して、さすがに意識が覚醒した。
「だ、大丈夫ですから……っ」
手を引っ込めたら、今度はエイノがヘルジュの頬を両手で挟んできた。
「頬もこんなに冷たくして」
エイノの骨張った指に頬をなでさすられて、ヘルジュは声も出ない。好きな人に遠慮なく触られてしまうと、どうにも気恥ずかしさでうずうずする。
「こすったらだいぶマシになってきたな」
うりうりと指先で頬を押しもまれて、ヘルジュは違うと言いたくなった。
(それはエイノ様が、近すぎるからで……っ)
夜も更けてきて、メイドたちも下がらせている。シルヴィアはさっさといなくなってしまった。
ふたりっきりだと気づいたとたん、ヘルジュはドキドキが抑えられなくなった。心臓がうるさいくらい鳴っている。
「そんな目で見ないでくれ。お前が可愛いから何か色々と負けそうだ」
何に負けるのだろうと一瞬気を取られた隙にすっとエイノが身をかがめ、唇を重ね合わせてきた。
ヘルジュは元来あまり自分に自信がないが、キスをしてもらうと少しだけ勇気が出る。妻として認めてもらえているような気がするのだ。優しい、素敵な人だと思う。
幸福に身を委ねていたら、エイノが舌打ちした。
「お前な、嫌なときは嫌だと言わないと、ろくなことにならんぞ。私のような男はひっぱたかれでもしなければなかなか正気には戻らない」




