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ヘルジュとエイノはその日のうちに王都に向けて出発したので、父親がどうなったのかは、後日送られてきた修道院長からの手紙で報された。
ヘルジュはエイノと一緒に、執務室でその手紙を一緒に見た。
修道女たちの看病で父親はある程度回復したが、歩行と物の持ち運びにはまだ苦労しているということだった。
「回復するといいな」
とはエイノの談で、その冷たい言い方に、ヘルジュはうっすらと不穏なものを感じたが、怖くて何も言えなかった。
父は領地に戻る予定だとも書いてあったが、エイノは不満そうだった。
「なぜのうのうと領地に戻ろうとしているんだ? 不義の子は世間様に顔向けができないことになっているんじゃないか? この男も修道院に行くのが筋だろうに」
それは父の口癖だったし、実際にはそれ以上にヘルジュを罵っていたが、どうしてエイノがそれを知っているのだろう。
「エイノ様は父についてどのくらいご存じなのですか?」
「引退した使用人から聞き出せる範囲で聞いた。優秀な部下がいてな。ヘルジュとは直接面識はないようだったが、お前によろしくと言ってペンダントも預けてくれたそうだ」
エイノは思い出したように、机の引き出しから鎖を引っ張り出す。
「ヘルジュが持っているといい」
渡されたロケットを開いて、中に描かれた肖像画を見る。
祖父の金色がかった茶の瞳を見た途端、ヘルジュはまた泣きそうになってしまった。
母は浮気などしていなかった。
ヘルジュも汚れた子などではなかったのだ。
嘆きながら死んでいった母親の無念が晴れるわけではないけれど、ヘルジュの心は慰められたのだった。
「泣く必要はないだろうに」
エイノが涙を拭ってくれる。
「お前は手もこんなに小さいのに、目だけは大きいな」
そんなことを言いながら手を握ってくるので、ヘルジュは泣くどころではなくなってしまった。
(エイノ様の手はとても大きいです)
強そうな手。でも彼が外見よりも繊細なことを知っている。ヘルジュだけが知っているのだ。
それからまたエイノは厳めしい表情になった。
「この宝石のような目に傷をつけようとしていたなど信じられない。やっぱり徹底的に痛めつけてやればよかったか」
「もう十分、父も反省したと思います……」
「身内だからといって甘やかすとためにならないぞ」
「そんな……」
エイノは怖い目つきをふっとゆるめた。
「そこがお前の魅力でもある。私がなんとかしてやらなければと思わされるんだ。騎士とは本来そういうものだからな。奪うためにではなく、大事なものを守るために剣を執る。――執ったんだ、私は」
ヘルジュは急いでエイノのお喋りに割り込む。
「エイノ様は、立派に国をお守りになったと思います」
「ああ……」
エイノはとても柔らかな笑みをヘルジュに見せてくれた。
「やっと自分でもそう思えるようになってきた」
優しく甘い語り口に、以前のような不安定さはなかった。痩せて厳格さが際立っていた頬もつやを取り戻し、顔色がよくなったように感じる。
エイノも、長らくの不調から抜け出しつつあるのかもしれなかった。
「私が今こうしていられるのも、ヘルジュがいてくれたからだ。お前の慎ましやかで可愛い人柄にどのくらい救われたか分からない。字義通りヘルジュは私の勝利の女神で、かけがえのない妻だ」
次第に熱を帯びた囁き声に変わり、最後に甘い口づけが振ってくる。
(私も、エイノ様がいてくれたから、今ここにいられるのです)
ヘルジュは熱心な口づけを甘受しながら、つかの間の幸せが日常へと変わりつつあることの喜びを、そっと噛み締めた。
◇◇◇
父の近況報告をもらうより少し前。
ヘルジュが数日ぶりに帰宅したとき、カジャは大泣きで迎えてくれた。
「私はずっとおそばについておりましたのに、奥様の異変に気づいてさしあげられなくて本当に悔しくて……」
「私が勝手にしたことですから、そんなこと気に病まないでください」
カジャは涙をエプロンで拭いつつ、決死の表情でヘルジュを見た。
「……私、本当は薄々気づいておりました。奥様が人知れず何かに悩んでいらっしゃることに……しきりに貴婦人らしくないことを気にしていらしたことも……」
ヘルジュは気まずくなった。もともとあまり明るい性格ではないが、それがカジャの目にどう映るのかは気にしたことがなかったのだ。
「ごめんなさい、心配させて」
「いいえ。私が後悔しているのは、一度もお声をかけてさしあげることがなかったことでございます。控えめでお可愛らしくてお優しい奥様は、とても立派な、淑女らしい方だと思っておりましたのに……もっと早くにお声をおかけして、お話を聞いてさしあげればと思うと申し訳なくて悔しくて……」
カジャはまた泣き出した。
「私は新参者でこの家のことには詳しくないのですが、以前お世話になっていたところからのご紹介で参りましたので、旦那様のおうわさはいくつか耳にしておりました。大変に気難しい方だということだったのですが、奥様を気にかけるご様子はとてもそんな風には見えなかったので、不思議に思っておりました」
カジャは戦争でいろいろあったことなど知らないから、余計に不審に見えたのだろう。
「先日奥様がいなくなったときの旦那様はそれはもう恐ろしい剣幕で、私も厳しく尋問されたのでございます。それで、旦那様のお優しさは、奥様のお人柄が為せる技なのだと痛感いたしました。お優しくて繊細で、とても謙虚で……そんな奥様だから旦那様もご結婚なさりたいとお思いになったのでしょう」
(家畜同然に見繕われたなんて言ったら、カジャはどう思うでしょうか)
ヘルジュはそっと思ったが、あえて口に出すのはやめておいた。
「私も奥様のおそばにいると、お優しさがとても心に染みて、癒やされるような気持ちになります。どうか貴族失格だなどとお考えになるのはおやめくださいませ。奥様は、本当に素敵な、スレースヴィ公爵夫人でございます」
(私が、公爵夫人)
かりそめの妻。
あるいは家畜の花嫁。
あるいは人形のようなお飾りの奥様。
いつも自分のことをそう戒めていた。
でもカジャは、そんな彼女を素敵な公爵夫人だと言ってくれたのだ。
誰かにそんなことを言ってもらうのは初めてで、嬉しくて、舞い上がったあとに欲が湧いた。
(そんな人になれたら素敵)
以前のヘルジュならこんな大それた願いは抱かなかっただろう。
でも今は、そばにいたいと思う人がいる。
(エイノ様のおそばにいたいのなら、このままではいられません――)
変わりたいと願う心を自覚した瞬間、何かがヘルジュの中でカチリとハマった。固く閉ざしていた心の錠が開いたような感覚だった。
ヘルジュにとって現実はいつも残酷で、ドアの隙間からそっとのぞき見るように世界を見ていた。見たくないときはずっとドアを閉めていた。
そのとき初めて、開け放って外の世界を眺めているような心地よい感覚になったのだった。
「……ありがとう、カジャ」
嬉しさのあまり、へらりとだらしなく頬が緩んだ。
カジャがハッとしたように目を見開く。
「まあ、なんて素敵な笑顔なんでしょう……! お可愛らしいったらありませんわ」
うるうるの瞳を見ていたら、カジャの瞳の色に気がついた。
「カジャは、瞳が綺麗なヘーゼルなんですね」
すると、彼女がきょとんとした顔になる。
「私も、あなたのことが素敵だと思って……」
小さな声で付け足したら、カジャは両手で自身の頬を覆い、身悶えた。
「もったいないお言葉ですわ! まあまあどうしましょう、奥様のように奥ゆかしい方からおっしゃっていただくと面はゆい心地がいたしますわね!」
しきりに感激してくれるカジャに、ヘルジュもつられて嬉しくなる。
(カジャとももっと仲良くなりたい)
身近に理解者がいるおかげで、ヘルジュの未来は幸先のいいものとなりそうだった。




