3 戦勝祈願の儀式
ヘルジュは婚前契約書の内容も見ず、すべてエイノのいいなりにサインを済ませると、すぐに結婚した。
エイノは宣言通り、結婚式を驚くべき無関心さでいい加減に済ませてしまった。王都であれば友人の何人かはいて当然だろうに、誰も呼ばなかったし、ヘルジュの実家・アーレ伯爵家の人間も誰一人として呼ばれる気配がなかった。
ドレスなどもどこかからの借り物で、あらかじめヘルジュのために用意されたものではないことは明白だった。そのためヘルジュは、仮縫いで留めてもらった部分がちぎれないかヒヤヒヤしながら、なんとかドレスがずり落ちる前に終わってほしいとずっと願うはめになった。
しかも彼は、新婚の初夜にも訪れなかったではないか。
数々の心ない仕打ちにはなんとか感情を殺して対応できても、これには少し泣いてしまった。ヘルジュのことが好きでなくても、ほんのいっときくらいは顔を出して、今日のことをひと言ねぎらってくれるのではないかと、心のどこかで淡い期待を抱いていたのだ。朝になってまったく相手にされなかったことが明るみに出たときは、打ちのめされるような思いだった。
ヘルジュが次にエイノと会ったのは、実に三日も後のことだった。
「あの……旦那様」
「なんだ」
エイノからじろりとにらまれ、胃の腑がすくみあがる。
「その……結婚式の夜は……?」
勇気を出してそれだけ尋ねると、エイノは実に何でもないような口ぶりでこう答えただけだった。
「安心しろ、私はお前に手を出すつもりはない。でないと、修道女に戻れなくなるだろう?」
ヘルジュはかすかに抗議の声をあげかけた。
(私はなりたくて修道女を目指していたわけじゃないと、はっきり言うべきでしょうか)
そうならざるを得ない事情があった。
だから、エイノが馬車で強引に連れ去ってくれたときには、少しうれしさを感じたりもしたのだ。
(……下手なことを言うと追い出されてしまうかも)
彼が必要としているのは、いいなりに劇の役者をし、時期が来たら離婚する、もの言わぬお人形さんだ。勝手な振る舞いをすれば、別の人形と取り替えられるだけだろう。
たとえ一時でも、エイノの家に身を寄せることができたのを幸運だと思うしかない。
エイノの公爵邸に与えられた自室は、修道院のものなどとは比較にならないくらい贅沢だ。食事もすばらしいもので、これを口に出来ただけでも、エイノの提案を受け入れたかいがあったと思える。
ヘルジュはすべてを諦め、そして受け入れるつもりだった。
◇◇◇
戦勝祈願の儀式は、この世の贅を極めたような有様だった。
見渡す限りの道を豪華な装いの馬車が行き、サテンのドレスを身にまとった貴婦人や、重厚な軍服風のジャケット姿の紳士が、会場の至る所をそぞろ歩いている。
高位貴族ばかりの絢爛豪華な登場人物が品定めしているのは、目もくらむような美食の数々だ。
常夏の国に迷い込んだかと思わせるようなフルーツの山がいたるところでタワーを作り、あるいは舟形装飾の大皿に宝石のようなデザートとして陳列されている一方で、焼きたての肉のいい匂いがあちこちに漂い、趣向を凝らしたソースを添えたロースト肉が何十と、白いテーブルクロスのかかった長架の上で、食べられるのをいまかいまかと待っている。
ヘルジュも手を伸ばしてみたかったが、儀式に向けてきれいに着飾り、しかも侍女たちの手によって入念に化粧まで施されていたので、我慢した。
(終わったらきっと、口にする機会もあるはずです)
空には何発もの祝砲が打ち上がり、国中に慶事を祝う音を轟かせている。
王はピオレグ宮殿の庭をバルコニーから見下ろし、騎士団の演舞を見守っている。何百、何千という騎士服姿の男性が整然と列をなし、行進のパレードを披露した。騎馬隊のショーも実に見事で、眺めていて時間を忘れるほどだった。
(次はいよいよ戦勝祈願の儀式)
ヘルジュは宮廷併設のオペラの野外ステージに立たされることになった。数十人で構成されるオーケストラが荘厳に鳴り響き、エイノを初めとして、演者たちがずらりと並ぶ。
王の御前に一同がひれ伏してから、儀式が始まった。
ヘルジュはタアラの妻神・シファ――今回の儀式では、悪神のいたずらで髪を無残に切り落とされ、泣き伏す役どころだ。
シファが泣いていると、エイノ扮するタアラがやってきて、大げさに抱きしめてくれた。
現実では一度もそんなことをしてくれたことがない、と思うと、ヘルジュはもの悲しい気持ちになった。
悪神のいたずらに怒髪天を衝いたタアラは剣をかかげて散々に悪神を追い回し、こづき回し、ついには追い詰める。
悪神が命からがら『小人たちにカツラを作らせる』と約束したため、タアラはできばえを査定することになった。
黄金にも例えられるシファの美髪を、小人たちは誰が一番うまく作れるか競い合い、九夜ごとに同じ重さのものが八個したたり落ちる黄金の指輪、ドラゴンをも屠る黄金の剣、締めれば力が二倍になる黄金のベルト、決して壊れない無敵の船などを生み出した。
これらの宝具で、タアラは常勝無敗の戦神となるのだ。
タアラはシファの美しい髪と、それがもたらした数々の幸運を祝い、シファに限りない祝福を送る。
――キスをする算段になって、ヘルジュはつい真っ赤になってしまった。
だって、結婚式の初夜でも、そんなことはしなかったのだ。
たくさんの人に温かく見守られながら、仮初めにでも結婚らしいことがひとつできて、よかったのか悪かったのか。嫌だとは思っていなかったことは確かだ。
恥ずかしいやらドキドキするやらで、頭がどうにかなってしまいそうだった。
予定外に照れて使い物にならなくなってしまっているヘルジュを周囲が何かとフォローしてくれたおかげで、儀式は滞りなく終わった。
ヘルジュは続いて催された大きな宴会で、濃厚なジュレを乗せたロースト肉などを辛うじて口にすることができた。
(……おいしい)
修道院ではほとんど口にできなかったようなご馳走だ。カモやライチョウなど、さまざまな柔らかい鳥の肉を食べ比べて、ほんのりと楽しい気分を味わった。
ふと誰かに話を聞いてもらいたくなり、キョロキョロと周囲を見渡す。もちろん、誰もいなかった。
夫・エイノは先ほどからいろんな人とお酒を飲み交わしては何かを語り合っているようで、ヘルジュの方は振り返りもしない。
身を突き刺すような苦しさがこみ上げてきて、ヘルジュは戸惑った。これは、一体何の感情だろうかと思う。身体が端から砂になって、風に運ばれて消えていくような、寄る辺ない虚脱感。
あるいはそれはもしかしたら、言葉にするとこんな気持ちなのかもしれない。
(私はもう一生、心を通わせた人と家族になることはないのですね)
結婚ができればもしかして、というかすかな期待は、心のどこかにあった。でもそれも、エイノが夫となったことで、永遠に機会を失ってしまった。
ほんの少しだけ、涙が出た。でも、それもヴェールの陰に隠して拭えるほどの少量だ。あとにはぽっかりと穴が開いたような心だけが残った。
宴の席は夜更けとともにますます盛り上がっていった。古代の女神に擬態させられたシファは、真っ白なヴェールの下で、赤々と焚かれたかがり火と笑いさざめく人たちの楽しげな様子をひっそりと盗み見ながら、熱気に当てられて染まる頬とは裏腹に、心はどこまでも重く冷えていくのだった。
――儀式の翌日、エイノは全軍を率いて、戦地に旅立っていった。
あとには広大な屋敷と、空っぽの心のヘルジュだけが残された。
それから三年も、エイノは国に戻ってこなかった。




