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覚悟を決めてシーツにぶら下がったとき、自分の全体重を腕で支えるのは無謀だと知った。たちまち数メートルを滑り落ち、こすれて発火しそうな手のひらで必死にシーツをつかむ。途中でなんとか停まり、また滑り落ち――その繰り返しで、少しは高さによる衝撃を和らげられたらしい。
地面に打ち付けられたとき、死ぬほど痛かったが、まだ生きていたし、しばらく休んでいたら立ち上がれるまでに回復した。
(……手が)
皮をすりむいてしまったが、気に留めている場合でもない。シーツをぐるぐるに巻き付けて、ともかくも立ち上がった。
ヘルジュは茂みに隠れながらそうっと厩舎に近づき、中を覗き込む。誰もいないのを確認して、入り口に引っかけてある馬具をまとめて掴んだ。
馬は突然の侵入者にも見向きもせず、草を食べている。騒がないので、馬具もすぐにつけられた。
ゲートから馬を手綱で引っ張り出し、そろそろと徒歩で歩道を連れ歩く。あたりにはひとけもなく、幸いにして修道女の格好で顔が隠れているため、遠くからヘルジュだと分かる要素もない。
ヘルジュは門の外まで馬を誘導すると、その背にまたがった。
ちょうどそのとき、遠くから修道女の悲鳴と、男の罵声が聞こえてくる。きっとヘルジュが逃げ出したことで騒ぎになったのだろう。
ヘルジュはとにかく馬を走らせることにした。
(道なりに行けば、街に出られるはず。とにかくお父様の領地と反対に……)
いくらもいかないうちに、遠くで複数の馬のいななきが聞こえた。
首だけで振り返ると、馬を何頭も繋げた馬車が、ちょうどヘルジュの真後ろから走ってくるところだった。
ヘルジュは追いつかれないよう、必死に馬を急がせる。馬車との距離はかなりあった。
(これなら、振り切れるかも……)
ヘルジュが思った瞬間、パァン! と、後ろから乾いた銃声がした。
馬が驚きのあまり後ろ足で立ち上がる。
乗馬の初心者であるヘルジュにはひとたまりもなかった。
ヘルジュは鞍から振り落とされた。
砂利道に投げ出され、痛みで気が遠くなりかける。馬に踏まれなかったのは奇跡と言ってもよかった。勝手に逃げていく馬を、どうにか追いかけよう、立ち上がろうともがいたが、もう遅かった。
父親の馬車がすぐそばで急停止した。
怒りに満ち満ちた父親がヘルジュのすぐそばに迫る。
「この救いようのないゴミクズが、よくも私を騙したな!? やはりこの手で始末をつければよかった!」
父親がヘルジュの持つナイフを拾い上げ、鞘から抜き放つ。
「いや……お父様、やめて……!」
「誰が貴様の父だ! 不愉快な寄生虫め!」
父親はヘルジュの目をえぐろうと、ナイフを持ったままヘルジュのフードをひっつかみ、顔を上げさせた。
(もうダメ)
ヘルジュが顔を背け、目をつぶった瞬間――
遠くから鋭く、すさまじい音が轟いた。
父親が撃った銃などより遙かに重たい音だ。
父親が悲鳴をあげ、その場に崩れ落ちる。
足を押さえてうずくまる父親を呆然と眺めていたので、遠くに逃げていくヘルジュの馬の足音だとばかり思っていたものが、だんだんこちらに近づいてきていることに、しばらく気づかなかった。
(誰? 黒い服の……)
馬上の人物が疾走する馬を巧みな手綱さばきで止め、ひらりとヘルジュの横に降り立つ。
「ヘルジュ! お前だったか」
「エイノ様……!」
どうしてここに、と問いたかったが、ヘルジュは喜びと安堵とエイノを親しく思う気持ちでぐちゃぐちゃに乱れていたので、何も言葉を発せなかった。
「修道女にナイフを振るおうとしている暴漢が見えたので思わず撃ってしまったが、間に合ってよかった」
エイノはヘルジュの頬をひと撫でしてから、傍らの父親に目をやった。
「こいつは?」
「……お父様です」
告げるのは気が重かったが、隠していても仕方がない。
「アーレ伯爵? なぜあのような真似を?」
「やかましい、不倫女の子に自分で始末をつけて何が悪い!?」
負傷していても父は気丈だった。
「そのガキの目の色を見ろ! 汚らしい泥の色だ! アーレ伯爵家に代々伝わる紫の目ではない! せめてもの慈悲で修道院に入れてやったのに、勝手に脱走して嫁入りなどしおってからに!」
ヘルジュは父の暴露を胃がキリキリするような思いで聞いた。
(とうとう知られてしまいました)
エイノは父親の話に、あろうことか、鼻で笑った。
何を言っているのか、と言わんばかりに、エイノが余裕たっぷりで口を開く。
「でも、あなたの父親は金茶の目をしていたのでしょう? ヘルジュと同じような」
父親はみるみるうちに、顔色をなくしていった。
「……そんなはずはない」
「引退した使用人が証言していましたよ」
「でたらめだ! 証拠はどこにある?」
「さあ? 肖像画でも残っているのではないですか?」
「そんなものはない!」
エイノは不思議そうに首をひねる。
「なぜ断言できるのですか? まるで先手を打って処分したかのようですね」
「揚げ足を取るな、私は覚えている――肖像画にも紫色の目が描かれているはずだ! 事実無根の中傷はやめてもらおうか」
エイノは父親と睨み合い、厳しい表情で懐から鎖のようなものを取り出した。
掲げたのは、おそらくロケット・ペンダントであると思われた。
「これは引退した使用人が、奥方から譲り受けた品だということでしたが。息子であるあなたが肖像画をすべて処分してしまおうとしていたので、なんとか思い出の品を残しておきたかったが、これしか持ち出せなかったのだと。ああ、金と茶が混じり合う、実に美しい瞳ですね」
蓋を開け、中の肖像画を確認するエイノに、父親は初めて口をつぐんだ。
エイノはさらにたたみかける。
「ヘルジュが不倫の末に生まれたという証拠は? 金茶の瞳が祖父と孫に出たのなら、紫色の瞳が確実に出るという保証はどこにもない。何を根拠に不倫だと決めつけたのですか?」
ヘルジュはふたりのやり取りを横ではらはらと眺めながら、祖父母を思い出そうとした。祖父母はヘルジュが物心つく前には亡くなっていて、目の色は覚えていない。
「もうひとつ。あなたの母はアーレ伯爵家の親戚で、美しい紫の瞳をしていたそうですね」
エイノの発言で、ヘルジュはぼんやりとだが思い出してきた。確かに、どこかで見かけた祖母の若い頃の肖像画は、綺麗なスミレ色の目をしていた気がする。
「あなたの父親は、自分の目の色が伯爵家の色ではないのを気にして、親戚から妻を選んだ。そして正式な結婚の末に、あなたが生まれた。あなたは母方の紫の瞳を継承し、やはり正式な結婚で、先妻、つまりヘルジュの母との間に彼女を設けた。そして生まれたヘルジュは金茶の瞳を祖父から継承した。もちろん正式な嫡出子としてですよ」
エイノは面白そうににやりとした。
「……仮にアーレ伯爵家の紫が、代々必ず現れるものだとするのなら、あなたの父親は、どこの馬の骨から生まれたのでしょう?」
ヘルジュは、あれ? と思った。
(もしもおじいさまが、エイノ様の予想通りなら……)
「本当の婚外子は、あなたの父親だったのでしょう?」
ヘルジュにはなぜか、それが真実だと思えた。
(お母様はいつも、不倫などしていないと訴えていました)
泣きながら訴える母親は、幼いヘルジュから見てもとても可哀想だったし、嘘をついているようには見えなかった。




