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「なぜお前がこの修道院に入れられたのか、その鈍い頭ではすっかり忘れたのか?」
「修道院長様が、嫁げとおっしゃいました。私には反対する暇も与えられませんでした!」
「やかましい!」
ぴしゃりと鞭を振るう父に、ヘルジュは口をつぐむ。
「あの老婆、お前が罪深い人間だと言い聞かせたら、震え上がっていたぞ。下手すればあいつも死罪となるからな! まったく救いようのない馬鹿ばかりでうんざりだよ」
ヘルジュは気落ちした。おそらくそんなところだろうとは思っていたが、やはり院長はヘルジュのことを何も知らずに嫁にやってしまったのだろう。そして父からヘルジュの正体を知らされ、今頃になって焦ったのだ。
「お前が誰の子であるか、忘れたというのならもう一度聞かせてやろう。お前はあの汚らしい女が不倫の果てに産んだ、どこの馬の骨とも知れない子どもだ! アーレ伯爵家の血など一滴たりとも流れていない! 私の慈悲によって生かされていた寄生虫だよ、このゴミクズが!」
父の追及は激しさを増し、何度も扉を鞭で叩く。
昔はあの鞭が容赦なくヘルジュの全身に振り下ろされていたのだ。その痛かったこと、恐ろしかったこと。記憶が生々しく蘇り、泣きそうになった。
「お前などやはり殺せばよかった。お前をかばったせいで私にまで累が及ぶのだぞ。おぞましい裏切りを被った被害者であるこの私が、なぜ不倫女の汚い子どものために死なねばならん!? 死ぬならお前がひとりで死ね! 私に迷惑をかけるな!」
ヘルジュは必死に泣くのをこらえて、父の罵声が収まるのを待った。
「お前のその汚らしいドブ色の瞳――見るも不愉快だ! アーレ伯爵家にゆかりの紫の瞳を持たないお前を見たときの私の絶望が、怒りが、お前に分かるというのか、ええ!?」
ヘルジュは頭がクラクラしてきた。父の怒鳴り声はいつもヘルジュに吐き気を催させる。
(もう聞きたくありません)
やめてほしいと懇願したかったが、ヘルジュには大人しく聞く以外どうしようもない。口を挟めば鞭打たれると知っているからだ。
「本物の父親はどこに行った? お前を養わずに消えた! 母親はどこに行った? 恥知らずにも勝手に自殺した! 伯爵家の名にどこまで泥を塗れば気が済むのだ? お前には生きる資格などない! クズのような両親がそれを物語っている! クズの子はクズだ!」
父の癇癪はいつまでも続き、ヘルジュは何度も聞かされた説教をまた浴びせられることになった。
ひとしきり喚くと父は少し気が晴れたらしい。
「しかし自分で戻ってきたことは褒めてやる。嫁入りも院長の独断だったという話、信じてやらないでもない」
希望を感じて顔を上げたヘルジュに、紫の冷たい視線が突き刺さる。
「これが私なりの最後の慈悲だ」
父は腰から小さなナイフを外して、投げてよこした。
ほんの十センチ少々のナイフだ。
「そのナイフを使い、両目を潰せ」
ヘルジュは自分の聞いたことが信じられなかった。父はヘルジュをいくら鞭打とうとも、身体に傷が残るようなことはしないでいてくれたのだ。
「お前は母親から出生の秘密を聞かされ、誰にも言えずに自分から志願して修道院に入ったが、欲が出て騎士団長の妻に収まった。しかし良心の呵責に耐えきれず、不義の子であるという証を潰して、自殺を試みた」
まるでもう起きたあとのように父が語るので、ヘルジュは小刻みに震え出した。
「父である私が止めたため、命だけは助かったが、両目は治らず、妹の介護なくしては生きられない身体になった――私は、献身的な介護の様子を騎士団長に見せ、自然に接近させたあと、不義の子よりもこちらの方を娶れと勧める――これがお前が唯一生きながらえる道だ。分かったか?」
決して分かりたくなかったので、ヘルジュは必死に否定の仕草を取った。
「お、お許しください……私は、もう二度と修道院を出ようとは思いません……っ」
「私の真実の子、唯一の子は、とびっきりの嫁ぎ先を必要としている。あの子も騎士団長のことが気に入ったようだ。お前のような罪人が、妹の役に立てることを光栄に思うがいい」
ヘルジュは短剣を拾う勇気さえなかった。ただひたすら父親に向かって手を組み、哀れっぽい声を上げる。
「……包帯で覆い隠せば、目に怪我を負っていなくても誤魔化せます……! 私も、妹に最大限協力いたします、ですから、どうか、目だけは……!」
「ならん。その目がある限り、私には死罪の影がつきまとうのだ」
ヘルジュは恐ろしさのあまり、心臓がバクバクとし、時の流れが異常に遅く感じるという不思議な体験をした。
(何か、何かを言わなければ、早く――)
さもなければ、本当に目を潰さなければならなくなる。父を思いとどまらせるような、説得力のあることを……嘘でもいいから、何か、何か――
いろんな考えがめまぐるしく頭をよぎり、ふとひとつの言い訳が閃く。
「でも、証拠が潰れてしまっては、騎士団長様に説明がつかなくなってしまいます……っ! 騎士団長様はこの国の戦神として妻神シファを大切にしているふりはなさっていますが、わたくしには指一本触れたことがありません……きっとわたくしの目の色がなんであるかなど、ご存じではないはずです……ですから、一度はわたくしの目が確かにお父様と違うということをご覧になっていただかなければ……!」
ヘルジュはさらに言いつのる。もうなりふりなど構ってはいられない。
「嘘だとお思いでしたら、わたくしがまだ清らかであることを、修道女たちに調べさせてください……! 明らかとなれば、離婚、再婚もより容易くなるでしょう、ですから、どうか、一度検査だけでも……! わたくしのためではなく、妹のために……!」
妹のことを持ち出したのが奏功したのかもしれない。
父親はため息をついた。
「よかろう。ただし嘘であれば容赦はせん。少しでも私のことを漏らせば、見切りを付ける」
「決して口外いたしません……! 私がお父様のお言いつけを破ったことがありますか?」
父親がヘルジュに背を向け、階段を降りていく。
(……助、かった)
今、この場は。
でも、この先はどうすればいいのか、ヘルジュには分からなかった。
父親と話し合うという道は断たれた。ひたすら言う通りにして妹との結婚を後押しするしかないのだろうか。
(エイノ様は素直に妹へ乗り換えるかしら)
ヘルジュの正体も見破ったぐらいなのだから、父の思惑もすぐに看破するかもしれない。そのとき、共謀者のヘルジュはまだエイノに好意を持っていてもらえるだろうか。
こんな女ならもういらない、と思って、情け容赦なく死罪にしてしまう可能性だってある。
(期待は、しません)
裏切られたときに辛いのはヘルジュだから。
(馬を奪って、逃げられれば……)
誰の手も届かないほど遠くへ行こう。国境を渡って、外国に出たっていい。
(乗馬の練習をさせてもらえて本当によかった)
金銭など持っていないが、幸いにしてエイノからもらった服は没収され、正規の修道女の服を着せてもらえている。『無一文で巡礼の旅をしている』と言えば、きっと親切な誰かがいくらか施しをしてくれるだろう。
ヘルジュは父が本部の棟に消えたのを見届けてから、父親が忘れていったナイフを使い、シーツを細く引き裂いてベッドの足にくくりつけた。
逃げるなら、この窓から降りるしかない。
(大丈夫、たったの二階……このままだとどうせ死ぬより辛い目に遭わされてしまう)
ダメで元々、とヘルジュは考えた。




