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「……その前に、お父様宛のメッセージをお願いしてもよろしいですか? 私は必ずお言いつけ通りにいたします。だから今日も戻ってきました。でも、その前にお父様とお話がしたいのです。どうかお父様に、面会にいらしてくださるようお願いしてください」
一縷の望みをかけてそう言ったヘルジュだったが、院長は決してヘルジュと目を合わせようとしなかった。
「……あなたがここに到着し次第、アーレ伯爵がいらっしゃると伺っています。何かあれば、そのときにお願いするといいでしょう」
会えるのであれば、ヘルジュにはもう言うことはない。
大人しく、案内されるままに南の塔に足を踏み入れた。
ヘルジュが二階に上がった途端、移動式の階段が遠く引き離され、どこからも降りられなくなる。
飛び降りれば無事ではいられない、高い塔だ。
ヘルジュは部屋に何もないことを悟って、ため息をついた。かろうじて聖人の像が壁の高いところに彫られている。
ヘルジュはその像に向かって膝をつき、手を組んだ。
祈りを捧げて過ごす時間は、とても流れが遅く感じた。
◇◇◇
エイノは執事から報せを受け取ってすぐに、妙だと考えた。
もうすぐ年末で、年越しのパーティが目白押しなのだ。ヘルジュも当然のように同伴するはずだった。
しかも彼女は『いつもの修道院』と言ったが、彼女がいつも奉仕活動をしているところは日帰りですぐの距離だ。長期間留守にする必要がない。
しかも迎えの馬車がわざわざやってきた、という。
(夜も遅い。迎えに行くか)
エイノが馬車を急がせて現地に行ってみても、『来ていない』と言われただけだった。
「そんなはずはない。迎えの馬車が来たと言っていたが」
「うちに馬車なんかありゃしませんよ。困窮した人のための修道院ですよ?」
修道院と一口に言ってもピンからキリまであるが、ボランティア施設に馬車がないのは十分にありえることだった。
(なら、どこに行ったんだ?)
真っ先に考えたのは、騙されたのではないか、ということだった。修道院が大変だとでも吹き込まれれば、彼女なら引っかかってしまうかもしれない。
エイノは嫌がる馬と馭者をなだめすかして、来た道をまた急がせた。
自宅に舞い戻り、詳しい状況を聴取する。
「ええ、確かに修道院からの使いだと馭者が。奥様はごく当然のように落ち着き払っていらっしゃいましたので、私も、以前から予定していたのだとばかり」
とは、執事の証言。
「いつもとお変わりないご様子でした。でも、出発の直前に、奥様がこれをくださって――『私にはもういらないから』と。何か関係あるのでしょうか?」
とは、メイドの証言。
エイノはやはり違和感を覚えた。ヘルジュの家はメイドにものをあげる習慣がなく、エイノからもらったものを人にやるのは気が引けると言っていたではないか。それなのに、どうして今日に限っては渡す気になったのだろう?
(このメイドが何かを隠しているのか、それとも)
「それだけか? ここ一週間の様子を順番に説明しろ」
「は、はい……一週間前は、朝方が寒かったので温かい部屋着とお湯をご用意して、午後はシルヴィア様とご一緒にお茶会にお出かけになるので、ふさわしい装いを見繕ってほしいとおっしゃって」
メイドは順番に説明していく。その中に、エイノとの記憶の食い違いはとくにない。
「ああ、そうだ、あれは四日前……いえ、五日前? お手紙が来ていました。確か、以前いらしたという修道院からで、奥様は何か考え込んでいらっしゃるご様子でした」
「その手紙は? どこにある?」
「手紙なら書き物机の、鍵付きの引き出しにいつもしまっていらっしゃったかと」
「鍵は?」
「あの……勝手にごらんになるのは……」
「いいから出せ」
渋るメイドをせき立てて、隠し場所から小さな鍵を持ってこさせた。
引き出しからありったけ手紙を引っ張り出し、順番に目を通す。バザーの寄付のお願い。お茶会の誘い。買い物に関するメモ書き。
出身の修道院からの手紙は見当たらなかった。
(このメイドは鍵のありかまで知っていた。何か隠しているのなら、先に始末していてもおかしくないが)
メイドが手にしているブローチをうさんくさい思いでじっと見つめる。
(宝石欲しさに何かしたのか?)
「宝石箱は? 何か金目のものを持ち出しているかもしれん」
宝石箱の鍵を開けさせ、中を検める。
ブローチよりも価値のありそうなダイヤやルビーは手つかずで残っていた。
というよりも、ヘルジュに与えた宝石はほぼ全部残っている。オニキスの玉をふんだんに使った聖具さえも。
(修道院を訪問するなら、聖具は持っていくはず)
その他、祈祷に必要そうなものも、すべて部屋に残されていた。
「……何も持たずに行ったのか? 何日か滞在する予定だったのに?」
それはそれで不自然だ。
「……そういえば、奥様はお着替えもお持ちではありませんでした」
「なんだと? おかしいと思わなかったのか?」
「いえ、泊まりがけになるとはまったく聞かされておりませんでしたので……」
メイドが青ざめているのに乗じて、エイノはたたみかける。
「覚えていることを全部話せ。隠すとためにならんぞ」
メイドはヘルジュの衣装を詳細に語って聞かせた。凝った髪型に反して地味な服装、人目を憚るような深い帽子に顔の前に垂らしたレース。
「変わった格好だとは思ったのです……お茶会にも、町でのお買い物にもふさわしくありません。でも、修道院への慰問なら、こういう服もあるんだと言われてしまえば、そんなものか、と思ってしまって」
エイノは嫌な予感がしてきた。メイドが嘘をついていないのであれば、ヘルジュは、計画的にこの家を出発したということにならないだろうか。
(何をする気だったんだ?)
悩むエイノに、メイドはぽつりと付け加える。
「……そういえば、このブローチをくださったときの奥様は、なんだかとても悲しそうで……私、一瞬だけ、お別れの挨拶に聞こえてしまったのです。二度と使う予定はないから――と。そんなはずはないと思って、すぐに忘れてしまいましたが、今こうして振り返ってみますと、あの服装は、なんだかまるで」
――死に装束みたいでした。
メイドがそう結ぶやいなや、エイノは修道院に出発することに決めた。
街まで出て、特急の馬車を拾うつもりで、あるだけの金と武装をかき集める。少数の随伴者だけ連れて、現地に急ぐことにした。
◇◇◇
南の塔に、移動式の階段が設置される。
誰かが世話をしにきたのだろうと思って何気なく見下ろし、ヘルジュの心臓は跳ね上がった。
ヘルジュの父、アーレ伯爵が階段を上がってくるではないか。
父が扉を開けてすぐのところに立ち塞がり、無言でヘルジュをにらみつける。
ヘルジュは父と話をしようと思ってやってきたのだ――その特徴的な紫の瞳を見るまでは。
顔に憎悪がありありと浮かぶ父は、そんな決意も吹っ飛ばすほどに恐ろしかった。
「遅い。なぜすぐに戻ってこなかった」
「も……申し訳ありません。これには訳が」
「言い訳はいい」
アーレ伯爵が手にした乗馬鞭でぴしゃりと手近な扉を叩く。
その痛みのほどをよく知っているヘルジュは、身体を縮こまらせて怖い思いをやりすごした。
「お前が騎士団長の妻だと新聞で報じられているのを知ったときは目の玉が飛び出るかと思ったわ。まだ六歳のお前を哀れと思い、この修道院で生涯を過ごし朽ち果てるならせめても命だけは助けてやろうとしたのに、恩をあだで返しよって」
返す言葉もないヘルジュは、うつむいた。




