25
それはかつてヘルジュが何度も言い聞かせられたことだった。
――お前に与えるものなど何もない。
――身ひとつで修道院にて朽ち果てろ。
父親の冷たい声が、まなざしが蘇ってきて、ヘルジュは真っ青になった。
「ふたりはとっても仲良しで結婚する気になっているのに、このままだと破談になりそうだって。男の子も修道院に入れられそうだというのよ」
「可哀想に……」
「その子たちに罪はないのにねえ」
「なんとか結婚させてあげられないのかしら?」
「難しいみたいよ」
婚外子の血筋は貴族と見なされないので、爵位を継がせることは許されない。出生を偽って爵位を継がせようとした場合、あるいは貴族に嫁がせた場合は、関与した人間および、婚外子の親と子三代、もろとも死罪とする――それがこの国の法だった。
「お嫁さんもどうして黙っていなかったのかしら。胸の内に収めておけばみんなが幸せになれたはずよ」
「本当にねえ……」
恐怖の余り固まっていたヘルジュも、聞こえてくる会話が思いの外同情的だったので、こっそり息を吐いた。
「何でも正直に話せばいいというものでもありませんよ。まったく」
シルヴィアがそう言ってくれたのが意外でもあり、嬉しくもあった。
(……優しい人たちもいるんですね)
生きていてはいけないと責められてきたヘルジュにとって、それは涙が出そうになるほど心強い出来事だった。
(怯えているばかりではダメ。エイノ様だって、どんなに辛くても胸を張ってらっしゃいましたもの)
ヘルジュは誰にも身体の震えを悟らせないよう、精一杯の笑顔でお茶会を続けた。
無事に終わらせられたとき、シルヴィアが褒めてくれた。
「まあまあいい態度でしたよ。お前はそうやってにこにこと人の話を聞いていればいいのです」
「はい。ありがとうございます、シルヴィア様」
ヘルジュはくたくたになってしまって、その日は早く床につくことにした。
その晩に、夢を見た。
色あせた記憶の父が母親のことを罵っている。
聞くに堪えない不快な言葉でさんざんに貶め、最後に決まってヘルジュもいずれはそうなると罵倒した。
――汚らわしい女から生まれたお前に生きる価値などない。
ハッと目が覚めたとき、あたりはまだ真っ暗だった。眠りが浅かったようだ。
嫌な夢を見て飛び起きることはよくあったが、その日のヘルジュはちょっとだけ悪くない気分だった。
だって、昨日、お茶会の人たちもみんな言っていたのだ。
(胸の内に収めておけば、みんな幸せになれる)
少なくともシルヴィアは理解を示してくれるはず。そう思えるだけで、心細い気持ちが晴れた。
(私はただ、エイノ様が回復するまで、おそばにいるだけ)
自分自身に言い聞かせ、ヘルジュは朝までもう一眠りすることにした。
◇◇◇
ヘルジュはまた手紙を受け取った。
ヘルジュが昔いた修道院からだ。時折手紙を送ってくるので、また寄付のお願いだろうかと、何の気なしに開いてみて、ヘルジュはさっと血の気が引いた。
そこには父からのメッセージを代理で送る、とあった。
――今すぐ修道院に戻れ。従わない場合は、お前の家に乗り込んですべての事情を騎士団長に打ち明ける。
――償いとして妹を騎士団長に嫁入りさせるから、お前はもう用済みだ。
――お前のような者が世間様に顔向けできると思うな。社交界で幅をきかすなど恥を知れ。
修道院はアーレ伯爵からかなりの寄付をもらったらしく、父からのメッセージのあと、すぐに迎えの馬車を送ると書いていた。
(どうしましょう)
修道院に行くと告げれば、怪しまれずに家を抜け出せるだろう。しかし、行ってどうするのかは分からなかった。
(もう少し待ってほしいとお願いすれば聞いてくれるでしょうか)
そんなはずはない、と薄々分かっていても、ヘルジュに打てる手などそのくらいしかない。
(私の素性がバレて困るのは、お父様も同じのはず)
身分を偽ってスレースヴィ公爵に嫁がせたのだから、父もまた死罪となる。でも、知らなかったと言い張って今すぐ結婚を無効にすれば助かるかもしれない。父がしたいのは、おそらくそういうことなのだろう。だからヘルジュを修道院に戻そうとしている。
(もう少しだけ、知らなかったふりをしていてほしいとお願いしてみましょう)
ヘルジュはいつか必ず彼の元を去る。誰にも迷惑をかけないと一生懸命に伝えれば、もしかしたら分かってもらえるかもしれない。
(分かってもらえなければ、そのときは――)
ヘルジュのワガママで死罪にされる人を出すわけにはいかない。そうなればどれだけの人が迷惑を被るだろう? 誰がどの程度関与しているかなんてヘルジュは知らないが、父以外にも犠牲者が出るだろう。妹、継母を始めとして、伯爵家に仕えている人たちのほとんどがヘルジュの目の色を知っている。彼ら全員が危ないかもしれない。
(修道院に戻るしか、ないのでしょうね)
ヘルジュは身体が砂となって崩れるような感覚をまた味わった。この感覚を知っている。三年前、戦勝祈願のパーティでも味わった。当時はこの気持ちをなんと言うのか知らなかったが、今なら分かる。
喪失感だ。
悲しみ抜いた先にある、すべての色と温度が抜け落ちた世界。
ヘルジュは自分の変化を悟られまいと、しばらくは明るく振る舞った。隠しおおせていたのか、誰からも怪しまれることはなかった。
数日して、修道院からの迎えの馬車がやってきた。
ヘルジュはいつもより念入りに支度を調えてもらった。メイドのカジャとももうお別れかもしれないと思うと、寂しかったのだ。
何か残していけるものはないだろうか、と、ヘルジュは往生際悪く考えた。ヘルジュを忘れずにいてくれるような、そんな贈り物。
ヘルジュは宝石箱を取ってきてもらい、鍵を開けさせた。
中からカジャがいつか褒めていたブローチを取り出して、握らせる。
(お下がりをメイドに下げ渡してもいいと、エイノ様はおっしゃっていましたもの)
「あなたにこれを」
「奥様……?」
「私にはもういらないものだから」
「本当ですか!? ありがとうございます!」
感激して何度もお礼を言ってくれるカジャに、ほんの少しだけ微笑みを誘われる。
「いつもの修道院に行ってくるわ。今回は少し長く滞在すると、エイノ様にはお伝えして」
執事に言付けたら、もうすることがなくなった。
――そうしてヘルジュは、修道院行きの馬車に乗り込んだ。
◇◇◇
ヘルジュが修道院に着いても、出迎えはなかった。
しかし勝手は分かっているので、ひとりで院長の部屋を訪ねた。初老の女性は彼女の顔を見て、少しぎくりとした。
「ヘルジュ――戻ったのですね」
「はい、お言いつけ通りに。騎士団長様のもとに嫁いだときも、お言いつけ通りにいたしました」
強調してしまったのは、心のどこかに戻りたくないという気持ちがあったからなのだろう。院長先生もそれが分かっているから、後ろめたそうにしているのだ。
「あなたの罪も、神はお許しくださいます。当院はあなたを歓迎いたしましょう」
ヘルジュは意外に思った。彼女はヘルジュの出生の秘密を知っているのだろうか。たとえ知っていたとしても、聖職者は業務上知り得た他人の秘密を漏らすような人たちでは絶対にないから、問題にはならないのだろう。
「部屋は南の塔に。とても日当たりがよくて居心地のいい部屋ですよ」
「え? でも――」
ヘルジュはその場所が以前、寝たきりの病人のために宛がわれていたことを知っている。寝たきりというのも本当は嘘で、二階に上がる階段を撤去してしまえば逃げ出せないから、実質的には幽閉されていたのだということも噂で聞いていた。
閉じ込められるかもしれない。
(それは嫌)




