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怒鳴られて殴られることも覚悟していたが、そんな瞬間はいつまでもやってこなかった。
エイノはしばらく泣くヘルジュを優しく背中などをさすりながら見守ってくれていたが、やがて諦めたようだった。
「……やめよう。もう何も言わなくていい。ヘルジュを泣かせてまで追及したいわけでもないんだ」
ヘルジュはほっとしたが、頭の中で勝手に続きを想像した。
『この場はいったん引き下がろう。またあとでゆっくり聞き出すか』
きっと彼はそう思っているに違いない。
「ヘルジュが何者であろうと、私にとっては勝利の女神で、かけがえのない大切な妻だ。だからそんなに泣くことはない。話したくなければ一生秘密にしていてもいい」
ヘルジュは意外な思いでエイノを見上げた。涙のせいで何も見えない。しかも止まる気配もなかった。
(きっとエイノ様は怒っていらっしゃる。私を軽蔑していらっしゃる。もうお嫌いになってしまった……)
ぐるぐると嫌な想像ばかりが頭の中を駆け巡る。
「ヘルジュ、愛している。世界中の何よりも、誰よりもヘルジュが愛おしい。お前がどんな人間であろうと、私の命を救ってくれたことに変わりはない。出自のことなどもう忘れよう。どうでもいいことだ」
エイノは不自然なほど優しい。
でも、とヘルジュは考える。
きっとこれは彼の作戦だ。真実を本人の口から吐かせた方が手っ取り早いから、口を割るように仕向けているのだろう。
知られたくない。
でも、離れたくもない。
(無理に聞き出さないとおっしゃるのなら、せめてエイノ様が復調するまでは、秘密に――)
そして、いずれ時期が来たら、秘密が露見する前に、そっと姿を消そう。
そうと決まれば、泣き止むのに時間はかからなかった。
ヘルジュが落ち着いてきたのを見て、エイノは顔をほころばせた。甘く優しい、恐怖と罪悪感で凍てついた心まであっという間に蕩かすような笑みだった。
「そう、何も泣く必要などない。私がついている」
つられてヘルジュも少しだけ笑った。
「だが、隠し通したいなら、お前も今のままではいられない。それは分かるだろう? 下手でもいいからダンスと乗馬をして、誘われても怖じ気づかない程度に茶会にも慣れなければ。夜会なら私がついていてやれるが」
「お茶会に、エイノ様は――」
「参加できないこともある。こればかりは主催する女性の意向だから、どうしようもない」
「……それなら、私も、お誘いには乗らないようにいたします」
いずれ姿を消す予定なのだから、もう他人とは関わらないようにしようとヘルジュは思ったが、エイノの考えは違うようだった。
「うまくやりおおせようなどと考えなくてもいいんだ。大切なのは何があってもうろたえない度胸。人に怪しまれても堂々とはねつける強さだ。あとは私がなんとかする」
エイノはヘルジュの緊張を解こうとしてか、そこで少し口調を柔らかくした。笑い交じりに、ヘルジュの肩を抱いてくれる。
「分かるよ、人前で何でもないふりをするのは疲れるだろう? それでも、そうやって涙を見せていると、必ずお前を気に入らない連中が足を引っ張りにくる。だから人前ではずっと笑っていろ。幸せで、何にも不安などありませんという顔をしていればいい――」
エイノはつかの間苦しそうに息を詰めた。
「――私も、そうしている」
パーティで、スポーツ大会で、新聞で、エイノはいつも自信に溢れた強いリーダーシップのある人間の演技を崩さなかった。彼がその裏で壮絶な苦しみを抱えているだなんて、誰が想像するだろう。
彼の悩みに比べたら、ヘルジュのなんと矮小なことか。狭量で、自分のことしか見えていなかったことを思い知らされて、恥ずかしくなった。
「私……っ、甘えていました……!」
彼の支えになりたい。その願いは変わらない。
ならば、彼の負担になっていてはいけなかったのだ。彼の手を借りなくても、立派な貴婦人として振る舞えるようになるべきだった。
「私、もっと精進いたします。まずは、ダンスを覚えて、それから……」
「何があっても堂々として、泣くときは私の前だけにしろ」
手を握られる。ドキリとしたのはどうしてなのだろう。不意の接触にももうずいぶん慣れてきたはずなのに。
「私もお前の前でしか泣けないんだ」
その告白はヘルジュの心を震わせた。
(私は……ちゃんと、必要とされていたのですね)
絶対にこの人が治るまでそばにいよう。
決意を込めて手を握り返すと、とても優しい口づけが返ってきた。軽く触れて離れたエイノの瞳と、ごく間近で見つめ合う。
厳しい冬の曇天に似た灰色が、そのときは春のように温かく見えた。
(この人の瞳が好き)
瞳の色は不変のもの。でも、彼を見る目はずいぶん変わってしまった。そばにいると温かくて、安らいだ気持ちになる。もう怖い人だとは思わない。
願わくば少しでも長く一緒にいられますように、という、祈りにも似た気持ちの正体が何なのか、ヘルジュにはやっぱり分からなかった。
◇◇◇
エイノの祖母が領地にやってきたのは、冬の訪れを感じさせる雪の日のことだった。
「ああ、寒い! まったくこの国と来たら、どうしてこう雪ばかりなのでしょうね」
ぶつくさ文句を言いつつも、シルヴィアは元気そうだった。高級な毛皮のコートに包まれ、実に温かそうだ。
荷ほどきの指示をしてひと息入れているシルヴィアに、ヘルジュはおずおずと声をかけた。
「紅茶でもいかがですか?」
「いいですね、いただきましょう。お前のまずいお茶が恋しいですよ、まったく」
「あの……あれから、少し練習したのです」
せめてお茶会に招いたり招かれたりしても恥をかかないように、最低限のマナーを学ぼうと思って、家庭教師を呼んでもらった。
するといくらもしないうちに言われたのだ。
「基本的なところはできていますね。どなたかに師事したことがあるのでは?」
思い返せば、三年間、ヘルジュの入れるお茶がまずいまずいと言いながら支度をやらせていたのはシルヴィアだった。そのついでに、外国人宣教師から移った言葉の訛りを矯正してくれたのも。
(私に大事なことを教えてくれていたのですね)
だからヘルジュは、シルヴィアに特訓の成果を見てもらいたかったのだ。
「どれ、入れてごらんなさい」
ヘルジュは慎重な手つきで茶葉を計る。茶葉はシルヴィアの好みそうな、はっきりした香りのものにした。いつかシルヴィアが『年を取ると感覚が鈍くなって、強い香りのものでないと味わった気がしなくなるのですよ』と愚痴をこぼしていたのを、ヘルジュは忘れていなかった。
熱々に沸かしたお湯を、たっぷりとした大きなティーポットに入れ、じっくり待つ――
ヘルジュは教わったことをひとつずつ確実にこなしていった。
できたての紅茶をそっとシルヴィアの前に置く。ぎゅっと目をつぶり、ドキドキしながら、彼女の反応を待った。ダメなときは容赦なく罵倒が飛んでくるので、身構えていないとならないのだ。
「……ほう? 少しは上達したようですね」
シルヴィアがヘルジュを褒めることはめったにない。こんなに優しい言葉をかけてもらったのは初めてだった。
「まったくお前は鈍くさくて教え甲斐のない子でしたが、やっと人並みになってきたのですね。言葉のアクセントも中央の人間と遜色ないようですし」
人並み。ヘルジュにはもったいないと思うくらいの賛辞をもらって、なんだか泣きそうになった。




