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「母親は? 姻戚の関係者もいないのか?」
「王都には何にも情報がありませんね。地元でご結婚なさったのかもしれません。王宮の文書室なら何か結婚の記録が残っているかもしれませんが」
閲覧したければなんらかの口実が必要だろう。
「……そうか。伯爵の噂、もう少し詳しく辿れるか?」
「えー? 無理ですね。これでもかなり聞き込みして回ったんですよ」
「なら無論、伯爵家にも足を伸ばしたんだろうな?」
ヨハンはとんでもないというように手を振った。
「いやいや、現地調査なら三ヶ月から半年はかかりますよ。不自然に思われないようにちょっとずつ周囲となじんでいってからの情報収集ですから。王都ならともかく、地方ならすぐには無理です。よそ者に厳しいんで」
そんなことはエイノも先刻承知だったが、それをやれと言いたかったのだ。ヨハンもまた察したようで、嫌そうに頭の後ろで手を組んだ。
「もう団長が直接挨拶に向かってはどうですか? こそこそ聞いて回るよりよっぽど早いでしょう」
「まあな」
それでもエイノには、引っかかるものを感じて、すぐには決断できなかった。
紫の瞳――それを受け継いでいないヘルジュ。
貴族の娘らしくない言動の数々。
エイノは結局、ヨハンに追加の仕事を頼むことにした。
「瞳の色が気になるな。ヘルジュは茶色の瞳だった」
「あ、そうなんすね」
「一家の目の色について少し調べてくれ。経費は出す」
「うまいもん食ってきていいなら」
「好きにしろ」
ヨハンは嬉しそうに出ていった。
エイノは仕事の続きに取りかかったが、ヘルジュのことが気になって、なかなか集中できなかった。
◇◇◇
ある日の午後、ヘルジュがメイドのカジャと一緒に部屋でせっせと修道院に寄付する子ども用の手袋や帽子類を編んでいると、エイノが訪ねてきた。
「寄付用の手芸品か。手慣れたものだな」
「ちょっと得意なんです」
ヘルジュが若干自慢げに言うと、エイノは部屋を見回した。
「君の作品はどれだ? 見てみたい」
「えっ……と……」
「奥様はいつも人にあげるものばかりお作りなので、ご自分でお使いになる品は何もお持ちではありませんよ」
カジャが助け船を出してくれたので、ヘルジュもこくこくとうなずいた。
「それはすごい。道理で無地のニットが多いわけだ」
「その……みっともないでしょうか……?」
貴族令嬢たるもの、人に見せられるような手芸品を持っていて当たり前。何か作った方がいいのだろうかと不安になった。
「いや、そんなことはない。むしろ自慢の種がひとつ増えた。私の妻はすばらしいとな」
「あまり、噂などは……」
「分かっている。ごく身内にだけだ」
(そういうことではないのですが……)
ヘルジュはパターンを織り込んだ編み物が不得意だった。飾りのための編み物は貴族がやるもので、修道女に求められている編み物のスキルは、いかにたくさん丈夫な服を編めるか、だ。生成りの毛糸を、隙間なくぴっちりと編めれば問題はない。それも、できるだけ素早く仕上げる必要がある。何百枚と作るのに、ちんたら時間をかけてはいられない。
子ども用のものはサイズ展開が多すぎるせいか、いくらあっても足りないと言われる。そのため、こうした寄付活動が欠かせないのである。
ヘルジュはそうした裏事情が勘のいい誰かにバレてしまうのを恐れていたが、エイノは幸いにして気づかなかったようだった。
(私は本当に、貴族としては失格ですね)
修道女として生きる以外の道は何も知らない。そんな自分が情けなくてならなかった。
エイノはぼんやりとヘルジュの手仕事を眺めていたが、その目は編み目を追いかけてはおらず、何も見えていないようだった。
あるいは何かを思い出して、自分の心の内側を覗いていたのかもしれない。
エイノはやがてぽつりと涙をこぼした。
(あ、慌てない、慌てない)
エイノはまだ体調がよくないのだから、大げさに騒ぎ立てたりしては失礼だ。
「……傷病兵が多すぎて物品が間に合わずに、持ち合わせの衣服を包帯代わりにしたこともあった。こうして編まれているものをほどいて……」
突然始まった告白に、ヘルジュはさりげなくカジャへと退室の合図をした。
ふたりきりになった室内で、エイノの抑えた低い声がヘルジュの耳にぎりぎり届く。
「……結局その戦いではほとんどのけが人が死んだ。不衛生だったせいもあるんだろう。人が作ってくれたものを引き裂いて壊して、さらに誰の命も救えなかった。自分の無謀と無策を痛感したよ……」
ヘルジュは手仕事をいったんやめて、エイノの近くまでいって、肩に手を置いた。
「そんなことまでエイノ様の責任だとは思いません。物品が足りなくて治療が間に合わなかったのは、お医者様の責任です」
「そもそも私がそんな策を立てなければよかったんだ。毎日のように後悔した。でも誰にも言えなかった……」
ヘルジュは話を聞きながら、なんと言えばいいのか分からなかった。
(エイノ様はきっと、繊細な方なのでしょうね)
本来は騎士向きの性格でもないのかもしれない。
でも、彼は生まれたときからそうなることを運命づけられていて、運悪く大きな戦争が起きてしまった。これほどの規模の戦争はもう百年以上起きていなかったので、騎士団長であっても戦争を経験せずに任期を終える人だって多かっただろう。
「エイノ様は、エイノ様にしかできない偉業を成し遂げてお戻りになりました。作戦ミスは私には分かりません。でも、あの東の大国を押し戻したのは、間違いなくエイノ様です」
ヘルジュはこの三年間、なるべく新聞を読むようにしていたが、難しいことはあまり分からなかった。というよりも、文字がそもそも限られた単語しか理解できなかったのだ。
それでも、分が悪いことは知っていた。西にある大国も、一緒に戦争に参加したが、それでも全面的にぶつかり、消耗したのは主にこの国だった。
一番辛い役どころをしていたエイノが、誰にも弱音を吐けなかったというのは分かるような気がしたので、ヘルジュはもうそれ以上何も言わずに、寄り添っていた。
(もっと気の利いたことが言えたらよかったのですが)
そばにいてくれるだけでありがたい、とエイノは言っていた。だからヘルジュは、エイノがもういいと言うまで、ずっと動かなかった。許されるなら、彼が心から笑える日が来るまで、ずっとこうしていたいとさえ思っていた。
ただ、その気持ちが何なのか、ヘルジュにはよく分からなかった。言葉にしたら消えてしまいそうな淡い感情ごと、エイノを抱きしめていた。
◇◇◇
パーティ三昧の日々はめくるめく速度ですぎていく。
戦勝祝いと称すれば、どんな馬鹿騒ぎも許容されるようになっていた。ヘルジュはエイノと一緒に知人たちの家々を回り、宮廷で王の望まれるまま武勇伝を語ってきかせた。
エイノは外見も華やかな美貌に反して引き締まった男らしい体つきをしており、しかも低い美声を持っていたので、勇ましい武勲を語らせるにはうってつけだと王に思われていたようだ。
宮廷でのパーティに外国からの貴賓も大勢来るようになり、戦勝の立役者の名は国境を越えて遠くにまで轟くようになっていた。
「私の妻こそが勝利の女神だったのだと思っています」
彼は自分の話に必ずヘルジュを絡めるようにしていた。どうしてなのかは彼自身が語ってくれた。
「私がこれでもかというほどヘルジュを大事にしていることが知れ渡れば、もうくだらない嫌がらせをする女も出てこなくなるだろう」
エイノの気持ちはありがたかったが、ヘルジュは自分が有名になるにつれ、言いようのない不安に襲われるようになっていった。




