2 お前を愛することはない
「あの娘とずいぶん話し込んでいたな」
それがヘルジュに向けられた会話の糸口であると気づくのにしばらくかかった。
「お友達だったのです」
「貴族令嬢と、修道女のお前がか?」
まるで絶対的に違う種族かのように言われて、驚いたのはヘルジュの方だった。
「エリーは修道女の見習いとして……貴族の身分を捨てる予定で修道院に来ていました。だから、同じ境遇の仲間だと思っておりました」
「あれは修道女になるつもりなんかなかっただろう」
氷の騎士団長様が何の興味もなさそうに言う。
「私は三度、姿を変えてここの下見に来たが、どいつもこいつも全然仕事をしていなかった」
「……」
実はヘルジュも、そのことについてはどうしてなのだろうと思っていたのだ。
騎士団長様目当てに来たのだというエリーの話が本当なら、他の子の魂胆も似たようなものだったのかもしれない。
「本気で修道女になるつもりがあったのはお前だけだった。アーレ伯爵令嬢のヘルジュ」
名前を呼ばれて、ヘルジュは意外に思った。誰でもよさそうな口ぶりだったので、てっきりヘルジュにも興味がないのだとばかり思っていた。
「私はスレースヴィ公爵のエイノ、世間では『騎士団長』で通っている」
エイノは面白くもなさそうに、一方的な話を続ける。
「もうすぐ戦争があることは知っているだろう? 私は総司令官の任を受けることになった」
「それは……おめでとうございます」
自慢話をしたいのかと思い、ヘルジュは形ばかり祝ったが、エイノはまったくどうでもよさそうだった。
「私は騎士を代表して出陣の儀式をするが、それには妻と一緒に役を演じなければならないらしい」
エイノは指を指して「お前だ」と言った。
「戦の神タアラと、その愛妻シファ」
タアラは神話の神様で、ヘルジュでも知っているくらい有名な存在だ。隣国では『トール』などと呼ばれていたりするらしい。
この国では最高位の神として崇められている。
「私がタアラを演じるのなら、未婚では験が悪いと言われてね。急遽タアラの愛妻・シファ役の娘を探さないとならなくなった。できれば伝承のシファと同様、金髪で、勤勉な娘を、と」
ヘルジュは無意識のうちに自身のアッシュブロンドに手をかけた。手入れが行き届いていないため、それほど綺麗ではないが、金髪は金髪だ。
「というわけでお前は、シファの座を見事に射止めたわけだ。おめでとう」
エイノが皮肉げに、他人事の口調で祝ってくれたけれど、ヘルジュにはこれがめでたいことだとはどうしても思えなかった。
もちろん、エイノの妻の地位は人が羨むような素晴らしいものなのだろう。騎士職としても、貴族としてもほぼ頂点に君臨する華やかな経歴や、優美で人好きのする容姿から、そのように推論した。
幸運をありがたがって甘受するのが、世間での一般的な反応に違いない。
「ありがとうございます……その、騎士団長様に私を選んでいただけたこと、とても、光栄です」
言いながら、あちこちがつっかえてしまったのは、エイノの投げやりな態度が怖いせいだった。
彼がヘルジュに好感を持っているとは、どうしても思えない。不安と心細さを、どうにか相手に嫌われたくない一心で必死に覆い隠しているため、そのようなみっともない話し方になった。
エイノはヘルジュにかけらも同情心らしきものは見せなかった。先ほどから冷笑的な態度でい続けている。
「ああ、お前は本当にラッキーだったな」
いっそ優しいと言っていいほどの口調も、馴れ馴れしさを強調することでヘルジュに立場の弱さを分からせようとしているかのようだった。
「私が戦地で死ねば、公爵家の財産がすべて君の元に転がり込む。これは嬉しいだろうと私も思う。もちろんお前もそう思うだろう?」
強烈な皮肉の気配にひるみ、ヘルジュは口ごもる。
「どうした? 嬉しくない、とでも?」
「い……いえ、そのような……」
馬車は地獄のようにのろい歩みで進んでいる。早く着いてほしいと切実にヘルジュは願った。
ヘルジュはエイノの値踏みするような視線と、圧迫するような態度の連続に、居心地の悪さをずっと感じていたが、ここに来ていよいよ耐えがたくなってきた。
「……ほ、他に相続する方がいらっしゃるのなら、その方に……私はどうやら、儀式のための仮の妻だそうなので……荷が重すぎます」
「そうだろう。普通ならば、そんな面倒くさい立場、絶対に嫌だと思うものだ。ところが金と権力が絡むと人間はまったく信用がならなくなるんだ。虫も殺さぬ顔の新妻が、豹変する」
エイノは両手を軽く広げてみせた。
「分かるか? 私の難しい立場が。結婚相手は儀式ができればそれこそ誰でもいい――だが、金の亡者だけは困る。さりとてこんな面倒で危険が伴う立場を、私が好ましいと感じるような、ごく普通の貴族令嬢にさせるわけにもいかない。それこそ私の不在中、どんなトラブルが起きても安全を保障できないわけだからな。では、どこから相手を探してくるか――」
エイノは冷酷そうで、ヘルジュに興味を持っているようには見えなかったが、自分の思いつきだけは少し自慢に思っているようだ。よく喋る言葉の端々に、自信がうかがえた。
「誰でもよかったが、修道女から選ぶことにした。忍耐強く、従順で、物欲の薄い娘が今回の任務に最適だったからな」
任務。彼にしてみれば、今回の結婚も任務なのだろう。決して好き合った娘と添い遂げるためのものではないと再三念を押されているようで――事実その意図もあるのだろうが――ヘルジュはますます憂鬱になった。
「修道女を志す娘なら、私の目が届かないところでどんなトラブルが起きたとしても、神が守ってくれるだろう」
冷笑的な態度は、とても神を敬っている人のそれではない。
「それに、初めから一切を捨てるつもりできちんと修行を積んでいた娘なら、私が戦地から戻ってくるなり離婚を申し渡しても、素直に戻るだろう」
エイノは身を乗り出すと、反対側に座るヘルジュの隣に膝をついた。
頑健な手が、うつむきがちなヘルジュの顎をすくい上げ、目を合わせるように強制する。限界まで首を反らさなければならないほどエイノの頭身は高く、心理的にも大きく見えた。
灰の瞳が冷たく笑う。
「たとえ私が無事に戻っても、私がお前を愛することはない」
エイノの言葉が重くヘルジュの胸に突き刺さる。
しかし不思議と、涙は出てこなかった。
「何か質問は?」
ヘルジュは恐ろしい思いでエイノを見つめ返しながら、なんとか口を開く。
「……ありません。正直に話してくださって、ありがとうございます」
エイノは手を離して、舌打ちした。
「そんなに怯えるな。脅かしすぎたか」
「いえ、そんな……」
「震えているくせに何を言う」
ヘルジュはぎゅっと拳を握って、手の震えを隠そうとした。耐える仕草のヘルジュを、エイノは何か言いたげに、不機嫌な顔で見ていたが、結局そのことについてはもう追及しなかった。
「――儀式は二週間後だ。結婚式は内輪で済ませる。披露宴はしない。儀式の練習などは都度機会を設けるから、よく見てこなすように」
「承知いたしました」
それが婚前に、夫・エイノときちんと会話をした最後の記憶となった。




