第51話 杞憂は起きるもの 6歳 秋
鯨の解体は、とにかく作業に時間がかかっている。
獲物の図体が大きいこともあるけれど、父ちゃん曰く「年寄以外、鯨の解体をした経験がない」のだそうだ。
まして、今回は小型とはいえ2頭もいるわけで、指示もなかなか行き届かないらしい。
「おーい!湯は湧いてるか―!」
「はーい!」
そして迅速な解体を阻むのが鯨の分厚い皮下脂肪だ。
脂肪でべっとりと白く染まった斧やナイフを持った男衆がやって来ては、沸かしている湯にざぶりと突っ込んで洗って戻っていく。
鯨の側でも洗浄用の湯を沸かしているが、全ての道具を洗うには全く足りていないみたいだ。
僕は湯に浮いてきた脂を木匙ですくっては、外に捨てる。
「あー、もうこっち来るなって!」
捨てられた脂カス目当てのカモメが寄ってくるので、木匙を振って追い払った。
カモメ達は、鯨の解体中の男衆の側でも脂や肉のおこぼれを狙い、しつこくつき纏ってくる。
北の厳しい自然に生きる動物たちは、カロリーを得られる機会に貪欲だ。
そのうち、いい羽をしているやつは、まとめて捕まえて羽根布団にしてやろう。
罠がいいかな。餌を置いておいて枝を外したら上から被さるようにして…。
罠の構造を考えながら見つめていたら、なぜかカモメがやって来なくなった。
北の厳しい自然に生きる動物たちは、勘も鋭いらしい。
結局、午前中の鯨の解体は切り取った脂を沸かすだけで終わってしまった。
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作業中は、昼の食事もしっかり食べる。
全員が肉体労働をしているので、たくさん食べないと体が持たない。
「これは…油で煮たのか?」
「うん。ニシンとリーキ、玉葱、ニンニクの鯨の油煮」
大量に余っている鯨の脂を料理に使わない手はない。
捕鯨船の船員たちも鯨の脂で揚げ物をしていたそうだし。
それに北方の人々はカロリーの高い食品が大好きだ。
「美味い!なるほど。小さい鯨の脂は美味いと聞くが、煮込んでも美味いな」
「ほんと美味しいね!毎日食べたい!」
「それは無理よ。でも美味しいわね。なるほど脂で煮るのね…」
西風炉の熱で溶かし込んだ新鮮な鯨の脂で、じっくりと煮こんだ野菜とニシンの味は家族に大好評を博した。
鯨が捕れたときだけの特別メニューなのが残念なところだ。
どれだけ慎重に保存しても、いずれ鯨の脂は酸化して不味くなるだろう。
「ちょっと見せてもらっても?あら、美味しそう」
「ほんとうね。なるほど脂をたっぷり使って煮るのね」
母ちゃんの友達らしきご婦人達が、我が家の食事を覗きに来る。蒸し料理の発明以来、母ちゃんは村の中で新しいメニュー開発のインフルエンサーと見なされている。
流行に敏感なご婦人方は、母ちゃんの料理を見て参考にするようだ。
いえいえ、うちの息子がね…とかなんとか炉端会議が始まってしまった。
ちょっと恥ずかしい。
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お昼の食事休憩をたっぷりと挟んでから、午後の作業が始まった。
村長婦人が陣頭指揮を取っていた女衆のニシン処理に比べれば、男衆の鯨解体の作業速度はノンビリしたものに見える。
ニシンは1日で処理しきらないと傷んで駄目になってしまうけれど、鯨は大きいので傷む速度が遅いということもあるし、とても1日では解体が終わらないと見極めて、作業ペースを守る方向にシフトしているのかもしれない。
「おーし、コロ持って来い!コロ!」
鯨解体に従事する男衆が適正な人数まで減らされて、残りの男達は2隻の長船の揚陸作業へと回された。
船小屋は臨時のニシンの燻製小屋へと女衆に接収されてしまったが、とりあえず陸揚げして船の傷んだ箇所の修理や水密処理確認などをするようだ。
「引け!引け!引け!」
男達の野太い声が浜に響き渡り、縄で引かれた2隻の長船が順に揚陸されていく。
「すごいねえ…あんな大きな長船でも陸に上がるんだ」
鯨の陸揚げの際には僕も縄を持たせてもらえたけれど、長船には参加させてもらえなかった。戦利品の権利というやつだろうか。
揚陸された長船は、帆柱を固定してた楔が外されてから、帆も慎重に外される。
それから長船がひっくり返されると、船底に溜まっていた海水がざばっ、と浜にぶちまけられた。戦利品である2隻目の長船の浸水は特に酷くて、ざばあっ、とさらに大量の海水が浜に広がった。
あんなにも浸水する長船で海を渡ってきたのか。怖ろしすぎる。
船員は航海の間中、船底に溜まる海水を桶で捨て続けなければならなかっただろう。
勇気を通り越して蛮勇、無謀と言うしかない
ニシンの処理は女衆と子供の頑張りで、なんとか全てのニシンが吊り下げられ、燻製の準備が整った。
「火を入れるぞー。みんな小屋から出てー」
火の番の指示で中で作業をしていた女子供が全員、船小屋の外に出る。
これから1週間ほどかけて、交代で火の番をしながらニシンを燻製にするのだ。
ニシンを漬けていた大量の桶は、洗われた後で全てが煮溶かした鯨の脂を貯蔵するために使われる。
鯨の脂の処理に目処がつけば、今度は肉の番だ。
とはいえ、村にはもう桶も樽も燻製にする場所すら無い。全ての余剰倉庫を使い切ってしまった。
どうするのか、と心配していたのだけれど、村の年寄には知恵があった。
「ようし、白樺の枝と木をできるだけたくさん持って来い」
村でも数少ない鯨の解体経験者の指示で、たくさんの白樺の枝や木が集められた。
集められた枝も木は適当な長さに斧でカットされ、櫓のように組まれて即席の干し棚が作られる。
「鯨肉は薄く切って、塩を塗り込むんだ。水出しをする」
クジラ肉は数センチ程度にナイフで薄く来られ、表面には塩が塗り込まれる。
塗るための塩は、ニシンで使い果たした我が家からだけではとても足りないので、村長がほとんどを供出した。
たぶん村長婦人の指示だろうね。
そうして塩が塗り込まれた鯨肉が白樺の棚に並べられ、鯨肉の上から別の白樺の枝や木が載せられる。
こうして何重にも鯨肉と白樺が挟んだ上から重り用の石が載せられた。
「これでサウナ1巡分の日だけ、水出しをする」
一週間ほど、自然乾燥させるらしい。
もちろんそのままということはなくて、適宜、棚の上下を入れ替えたり、肉の表裏を入れ替えて状況を確認するし、雨が降れば毛皮をかけて濡れないようにもする。
こちらもニシンの燻製の火の番と同じように、交代で作業者がつく。
作業の全体要領が掴めたのか、がぜん村人全体の動きがよくなった。
おかげで当初は一週間はかかると見られていた鯨の解体は、たったの四日間で終わった。
水抜きされた鯨の肉は、ニシンの燻製期間が終わり次第、船小屋に吊るされて燻製肉へと燻されることになる。
皮が剥がされ、肉と脂肪が切り取られて残った骨も、釣り針やナイフなど道具の材料に使われる。
変わった部位としては、小さな鯨のくせに髭があった。ヒゲクジラの仲間だったらしい。髭も加工されて装飾品や道具の材料に使われるとか。ちょっとだけ触らせてもらったけれど、ゴムやプラスチックのような不思議な手触りだった。
なにか面白い用途がありそうだったので、父ちゃんに頼んで1枚だけ確保してもらった。
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一連の作業が一段落したので、久しぶりに家族揃って夕食を家で取ることができた。
ここのところは、ずっと浜でキャンプ生活をしていたものね。
お祭りのようで楽しいけれど、家族だけで過ごすとホッとする。
「あとは、鯨の肉を干している間に樽や桶を作らないとな。そうしないと安心して麦酒も飲めん」
しまった。樽のサイズを指定するよう村長婦人にお願いしておかないと。
それに塩も今年は早く作り始めないといけないかもなあ。
どうせなら大きな冷燻施設も併設して。
それよりも秋の子供クナトルレイク大会の手配もしないと。
蜂蜜の薬だって作りたい。
「そうだね。やることは沢山あるねえ…」
僕は6歳の子供なのに働き過ぎではなかろうか。
若干げんなりしている僕を励ますように、父ちゃんが声をかけてくれる。
「だがな、今年の冬は食べ物に困ることは絶対にない。こんな豊かな恵みを齎してくれたアスガルドの神々と海の神には感謝を捧げないとな」
父ちゃんの励ましに頷きかけて…僕は怖ろしい可能性に気がついてしまった。
「ねえ父ちゃん、今年はまだ来てないけど、鮭(※タイセイヨウサケ・ブラウントラウト)が川を遡上してきたらどうするの…?」
「どうするって、それはなあ…」
「どうするって…ねえ」
「どうしよう?」
僕と父ちゃんだけでなく、母ちゃんとエリン姉も思わず顔を見合わせる。
杞憂に終わったらいい、との僕の願いも虚しく。
フィヨルドに流れ込む川へ鱗を煌めかせて産卵のために遡上する大量の鮭が目撃されるのは、それから間もなくのことだった。
4章 終わり
5章 晩秋へと続きます
次回はトールステイン大王伝説の回です。




