名前呼びには注意です
ベルティーナはまたも頭を抱えながら馬車に揺られていた。
(どうしてあんなことに……)
つい先ほどのことを思い出し、頭を掻きむしりたい衝動を抑えながらも深いため息をついた。
思いのほかレイモンドの屋敷でのお茶会はとても居心地が良く、過ごしやすかった。
あれほど警戒していたというのに、ベルティーナはそんなことも忘れてしまうほどに楽しく過ごしてしまった。
通常令嬢同士のお茶会は腹の探り合いであったり、情報共有の場だ。ベルティーナもそういったお茶会では気を抜くことはできず、いつも緊張しつつ参加していた。
しかし、レイモンドとのお茶会は最初こそ緊張していたものの、とにかく居心地がよかった。
美味しいお菓子とお茶、素晴らしい庭の景色に、計算されたように暖かな日差しが降り注ぐ座り心地の良いテーブルセット。
そして一番意外だったのはレイモンドがとても話やすい人物だったということだ。
こちらにいろいろ質問をしながら、自分の話も上手におり混ぜつつ、話が途切れる間も無く次の話題を持ち出してくる。
微妙な雰囲気になる沈黙もなく、ベルティーナが菓子を口に運んだ時には見計らったようにベルティーナが食べ終わるまでレイモンドが話しだす。
しかもまるで心の中を読んでいるのではというほど絶妙なタイミングでお菓子やお茶を勧めてくれる。
相手もいろいろ話してくれることもあり、ベルティーナはいつのまにか、ついつい気が緩み家族のことや自分のことを聞かれるままに答えてしまった。
今になってなんであんなにペラペラと話してしまったのだろうと後悔が押し寄せる。
そしてさらには……
「ヴァイス公爵令嬢、またこうしてゆっくり話をしたい。また誘ってもいいだろうか?」
「えっ!?えっと……」
ベルティーナは斜め上に視線持ち上げながらどう断ろうかと考える。
そして窺うようにチラリと視線を正面に戻す。するとこちらを期待に満ちたキラキラとした瞳で見つめてくる、美麗過ぎる微笑みをのせたレイモンドとバッチリ目が合う。
ベルティーナはその視線に引き攣りそうになりながら、なんとか断りの言葉を絞り出そうと考える。
「そ、そうですわね……」
ベルティーナがなんとか断ろうと理性で繋いでいた気持ちが、レイモンドの蕩けそうな優しい微笑みで、ゆるゆると緩んでいくのを感じる。
(や、やめてよ! そんな目で見ないで……断らなきゃいけないのに……やっぱりこの美しすぎる顔が凶悪なんだわ……)
ベルティーナが心の中でどう答えようかと悩んでいると、なかなか返事をもらえないことに、こちらが断ろうとしていることに気づいたのか、レイモンドの表情が不安げに揺れる。
まるで捨てられた子犬のような、なんとも放っておけない表情にさらにグラリと心が揺れる。
じっと不安そうな瞳で見つめられ、ベルティーナの中でついにポキっと何かが折れる音が聞こえた気がした。
(…………ああ!! もう!!!)
「えっと……そうですわね……誘っていただけるのであれば……」
ベルティーナの言葉にレイモンドはパッと明るい笑みを見せる。
「そうか! よかった! ありがとう! またこちらから連絡させてもらう。」
そのとても嬉しそうな幸せそうな表情に、ベルティーナは顔に笑みを貼り付けつつも心の中で崩れ落ちた。
陥落……
頭の中をその二文字が通り抜けた。
(私ってなんて意思が弱いのかしら……だってあんな顔で見つめられたら……いえ! 違う、これは違うわ! だ、だって相手の裏を探ることも重要だもの! そうよ、これはあえて誘いにのったのよ!)
意思の弱い自分をフォローするように、そんな意味のない強がりを自分の心の中でしつつ、ベルティーナは大きく頷いた。
「ヴァイス公爵令嬢……」
そうして何とか自分を納得させたところで、レイモンドが話しずらそうにこちらをチラチラと見つめてくる。
「そ、その……これから君とは是非もっと仲良くなりたいと思っている……そこでなのだが……」
その不自然に途切れた言葉を疑問に思いつつレイモンドを見つめると、レイモンドは視線を逸らし、空中に視線を彷徨わせる。
なかなか続きを話さないレイモンドを促すようにベルティーナが首を傾げると意を決したように一つ咳払いをした。
「その……君のことを名前で呼んでもいいだろうか?」
「……? ええ、別に構いませんわ。」
レイモンドはベルティーナの言葉に驚いたように目を見開くと、途端にパッと嬉しそうな笑顔に変わる。
何も考えず一も二もなく返事をしたベルティーナはその表情の変化に首を傾げる。
そしてそこではっと気づく。
ベルティーナの周りの家族や、あのちょくちょく情報共有のために会う友人は皆、ベルティーナのことを名前で呼んでいたので、何も考えずに了承してしまった。
しかしよく考えれば、家名でなく名前で呼び合うのは親しい人に限られる。それも異性であれば、その相手と仲が良いと言っているようなものだ。
今考えてみると、あの情報共有のために会う友人も二人だけの時は名前で呼んでいたが、社交の場で会う時は家名で呼んでいた。
(し、しまった……)
またも己の迂闊さを呪いながら、ベルティーナはどうしたものかと頭を抱える。
騎士公爵は令嬢たちの憧れの的だ。そんな彼にこのような二人だけの場ならともかく、社交の場で名前を呼ばれようものなら、令嬢達からどれほどの嫉妬を向けられるか……
考えただけでも恐ろしい……
ベルティーナはその怖すぎる想像にブルリと体を震わせて、両手で自らの腕をさする。
名前呼びの発言をどうにか取り消さなければとパッと顔を上げる。
「べ、ベルティーナ」
しかし、そこには頬を染めつつ、一文字一文字を噛み締めるように嬉しそうに笑うレイモンドの姿があった。
その優しげでなんとも甘い響きをのせるレイモンドの声に、ベルティーナは一気に頬に熱が集まるのを感じた。
まるで愛おしいと言われているような錯覚におちいる。
ふっと一瞬惚けたものの、ぶんぶんと心の中で思いっきり頭を振って、思考を切り替える。
そして「今、断らなければ!!」と心の中で喝を入れる。
しかし、いざ口を開こうとして、とてもキラキラと嬉しそうな笑顔をこちらに向けるレイモンドをみると言葉が詰まった。
(うっ…………何て曇りのない瞳で見つめてくるのよ……)
ベルティーナは何度か口をパクパクと動かそうとしたものの、レイモンドの顔を見るとなかなか言い出せない。
そうしているうちに、まるでこちらの心を読み取り、先手を打つかのようにレイモンドがにこやかに告げる。
「ベルティーナ、せっかくなら君も私のことはレイモンドと呼んでくれ。」
ベルティーナはその言葉にピシッと表情を固まらせた。
(や、やられた……)
『もう撤回はできない』
暗にそう言われた気がして、ベルティーナは下手な微笑を浮かべつつ、小さく頷くしか無かった。




