訓練場は嵐の予感
「ベルティーナ」
名前を呼ばれ、はっとしてそちらを見る。
(ってちょっと待って!! 全く助かってないわよ!!)
そこには先日の優しげな微笑みが消えた無表情のレイモンドがベルティーナを見下ろしていた。
(め、めっちゃ怖いんですけどっ!!)
「は、はい」
なんとか返事はしたもの、その圧迫感にゆっくり後ずさる。
そしてレイモンドもベルティーナを追いかけるようにまた一歩と足を踏み出す。
(何これ!? デジャブよ、デジャブ……)
そして壁際まで追い詰められたベルティーナは戦々恐々としてレイモンドを見上げる。
ドン!!
その音にびくりとベルティーナの肩が跳ねる。
レイモンドの両手がまるで逃さないとでも言うようにベルティーナの顔の両端に伸びている。
所為、壁ドンである。
恋愛漫画などで読む壁ドンはどきどきと甘酸っぱい思いがしたものだが、それは今皆無である。
ベルティーナにとって恐怖しかなく、甘さは欠片も感じない。
「えっと……シュヴァルツ騎士公爵閣下……?」
ベルティーナ呼びかけに、不機嫌さが増したように圧迫感が強まる。
(何!? 一体何だって言うのよ!!)
ベルティーナは泣き出したい気持ちのままレイモンドを見つめる。
「ベルティーナ?」
「は、はい……」
「ベルティーナ?」
何故かすごい圧で名前だけ呼ばれる状況にベルティーナはカタカタと震える。
そしてふと先日のお茶会の話を思い出した。
(ま、まさかね……)
そうは思いつつも今のこのわけのわからない状況を打破するためにやれることは一応試してみることにした。
「な、なんでしょうか? レイモンド様?」
ベルティーナの声にレイモンドの肩がビクッと跳ねる。
そしてばっと顔を背けると、一つ咳払いをする。
レイモンドの頬が微かに赤くなっているが、今のベルティーナはそんなことを気づける状態ではなかった。
「ウィリアム殿下とは親しいのか?」
「えっと……親しいというほどでは……」
いきなり出てきた王太子殿下の名前に首を傾げながら答える。
実際頻繁に会っている訳でもないし、何故あれほど自分を見つけると話しかけてくるのかわからないと、残念な思考のベルティーナは思う。
「そうか……」
レイモンドはすっと視線を逸らすと小さな声で呟く。
「ではあれはウィリアムの一人相撲か……」
小さな呟きを聞き取れなかったベルティーナは首を傾げる。
「あの….レイモンド様、今何とおっしゃったのですか? すみません。聞き取れませんでした」
「いや、こちらの話だ」
そう言うとレイモンドは先ほどの厳しい顔が嘘ののように、蕩けてしまいそうになる甘ったるい笑顔を見せる。
片手は壁につけたまま、もう片方の手でベルティーナの手を取ると、自らの口元に寄せる。
そしてチュッとまるでベルティーナに見せつけるかのようにキスを落とす。
さらにそのまま啄むようにベルティーナの手首のほうまでキスを落としていく。
ベルティーナはギョッとして目を見開いた。
(なっ……!!!)
ベルティーナは真っ赤になって、沸騰しそうになる頭のまま手を戻そうと引っ張るもびくともしない。
レイモンドはそんなベルティーナの様子を面白そうに見つめ、妖艶に笑う。
「お、お止めください! レイモンド様! 何をなさるのですか!?」
「なに、消毒だ。先ほどウィリアム殿下に触れられただろう?」
「そ、そのようなところまで触れられておりません!」
「そうだったか?」
「そうです!!」
レイモンドはふっと笑うと、ベルティーナの手を開放した。
ベルティーナは茹で上がりそうになる顔を手で押さえながら、何とか落ち着きを取り戻そうと深呼吸を繰り返す。
(なんていう色気なの……そしてやっぱり悔しいほどに顔がいい!! ……ってそうじゃなくって! いったいレイモンド様は何を考えているの……?)
益々相手が何を考えているのかわからず、謎が深まる中、目の前にすっとレイモンドが手を差し出した。
ベルティーナは先ほどのことを警戒して、チラリと窺うようにレイモンドを見つめる。
するとおかしそうにレイモンドはふっと表情を緩めた。
まるで揶揄われているような様子に恥ずかしさを感じ、ベルティーナなぷくっと頬を膨らませた。
その膨れ上がるベルティーナの頬を見て、レイモンドはさらに小さく声をあげて笑う。
「もう! 何なのですか!?」
「いや、すまない。私も騎士団の訓練場まで行くつもりだったのだ。案内しよう」
ベルティーナはレイモンドに警戒しつつも、一つ息を吐き、渋々彼の手に自分の手をのせた。
カンカン!
キンッ!
しばらく歩き、訓練場に近づくと、模擬刀で打ち合う音が聞こえてくる。
思っていたより激しい打ち合いの音に、ルドヴィックのことが心配になる。
「そういえば君の弟は騎士団に訓練に来ているのだったな?」
「はい。それにしても皆さん激しく打ち合われるのですね……」
ベルティーナの不安気な表情にレイモンドは安心させるように微笑む。
「音だけはすごいが、所詮は模擬刀だ。怪我をしたと言っても打ち身やかすり傷ができる程度だ。そんな心配せずとも大丈夫だ」
レイモンドの言葉にベルティーナはふっと詰めていた息を吐き出した。
訓練場の前に着くと、皆真剣な表情で凄まじい速さで剣を振るっている。
(流石は騎士団……騎士団に入れるということは実力は折り紙つきと聞くけれど……近くで見ると凄まじいわね)
ベルティーナがその光景に驚きつつ見ていると、少し高めの聞き馴染んだ声が聞こえた。
「あれ? 姉様?」
「ルドヴィック!!」
ルドヴィックは姉の姿を見つけると、こちらに駆けつけて来た。
「姉様? 一体どうしたのですか?」
「今日は王妃殿下主催のお茶会だったでしょう? その帰りに寄らしてもらったのよ」
「事前に言ってくださればよかったのに……」
ルドヴィックが恥ずかしそうに頬を染めるのを見て、ベルティーナはにっこりと笑う。
(あー流石はルドヴィック! 癒されるわ〜)
そんな朗らか雰囲気の二人の周りで騎士たちがコソコソと話し合う。
「あれが社交界で妖精のようだと噂になっている令嬢か?」
「ああ。ルドヴィックの姉君みたいだし間違いないだろう」
「確かにあれはすごいな……」
「儚げで今にも妖精のように消えてしまいそうだ」
周りからそんな風に思われているとは全く思っていないベルティーナは、思う存分可愛い弟を見て癒されていた。
そしてそんな二人を見て騎士たちも癒されていたのだが……
突然二人の後ろから重すぎるほどのプレッシャー感じ皆一斉に硬直する。
騎士たちはダラダラと一気に冷や汗を流しながら二人の後ろを窺う。
そこには二人の後ろから騎士団員に向けてものすごい威圧を放っているレイモンドがいた。
まるでベルティーナを見るなとでも言うように……
「おい! 何で騎士公爵閣下がいらしてるんだよ! この前来て、みんなコテンパンにしたとこじゃねーか!」
「俺だって知らねーよ! 知ってたら今日は休んでた……」
「あの噂……騎士公爵閣下がヴァイス公爵令嬢に求婚したって噂やっぱり本当だったのか……?」
騎士たちは互いに顔を見合わせると、真っ青に顔色を変える。
騎士たちはいつものレイモンドの様子知っているため、あの噂は嘘だど皆が思っていた。
しかし、今の状況を見るに、あの噂が真実であったのだと物語っている。
騎士公爵であるレイモンドは騎士たちの教育も担っている。
たまに訓練場に現れては訓練と称して全ての騎士たちをコテンパンにのして帰っていくのだ。
騎士たちの中では、もはやレイモンドは魔物より恐ろしい災害級の人物と認識されている。
いつも酷いのに、今はそのアピールすべき令嬢がここまで見に来ているのだ。
騎士たちにとっては最悪な未来しか想像できない……
「そうだわルドヴィック! あなたの模擬戦、ぜひ見せてくれないかしら? もし勝てたら何でも一つお願いを叶えてあげるわ!」
「お見せするのはいいですけど……別にご褒美などいいですよ」
その言葉を聞いていたレイモンドの目がきらりと光る。
「ベルティーナそれでは私も」
「え?」
「もし私がここにいる騎士団員全員と模擬戦で勝負し、勝利したなら、私の願いも一つ聞いてくれるか?」
まさかレイモンド自身からそんなことを言われると思っていなかったベルティーナは少し驚きながらも、その場にいる騎士を見渡す。
ざっと見て50人ほどの騎士がその場にいた。
それも騎士団といえば腕の立つものしか入れないのが常識だ。皆しっかりと鍛え上げていて、逞しい。
(流石に騎士公爵であってもこの人数は無理でしょう?)
ベルティーナはそう結論づけ、レイモンドににっこりと振り返る。
「ええ。もし、全員に勝てればいいですわよ」
その言葉にレイモンドは言質はとったばかりににっこり笑う。
そしてその返答を聞いた騎士たちは全員、顔から表情が抜け落ちた。その表情はさながら、いきなり怪物の前に放り込まれた哀れな小動物のようだ。
そして当のベルティーナもこの後、軽々しく返事をしたことを後悔することになったのだった……




