結界
――ねぇ、兄様知ってる?
どこかそそっかしい響きのある、懐かしい声。
妹の声。フィアナの声だ。
――古いおまじないがあるの。〝最初の一片〟っておまじない。
小さな背を精一杯伸ばして爪先立ちになり、彼女は天に手を伸ばした。答えるように、暗く曇った空から白い――
その時、背後に巨人が現れた。
禍々しい触手が幾本も巨人から伸びて、フィアナを包囲する。空を見上げるのに夢中なのか、彼女は気付かない。助けようとしても、足が動かない。僕が逃げろと叫んでも、不思議そうに首をかしげるだけだ。
触手は一斉に襲い掛かり、彼女をバラバラに喰い千切った。
□
目覚めた時、僕は全身にびっしり汗をかいていた。
ひどくだるくて熱い。辺りには妙な匂いがたちこめている。強烈な頭痛と吐き気に襲われ、再び目をつぶった。夢で見た惨劇が瞼の裏に鮮明に浮かぶ。畜生、僕の目覚めはいつも悪過ぎる。
フィアナに声は届かなかった。僕はなにもできなかった。
当然だ。妹が殺された時、僕はそこにいなかったのだから。
(本当は見てもいないのに……!)
惨劇が起きた時、僕は聖堂にいた。
事件が始まってから終わるまで、ずっとそこから動けなかったのだ。だから、詳しい状況を知っているわけではない。
悪夢が恐ろしくリアルな色彩を帯びるようになってしまったのは、経験が想像を補足した結果なのか――
そこまで思い至って、僕はようやく現在の状況に違和感を覚えた。
操術腔の結界が切れ、ティーガーの触手に襲われて、それから……?
(僕は喰われなかったのか……? あの状態から、どうして?)
瞬きを繰り返すと、視界が少しはっきりしてきた。
見慣れない高い天井と豪華な内装。僕が寝ているのは、細やかな彫刻が施された大きなベッドだった。周囲は布製の衝立で仕切られ、外側の様子はよくわからない。
衝立には護符が下げられていた。
四隅に置かれた香炉から漂っているのは、空気を清める浄化香だろう。
つまり僕はケガレを封じ込める浄化結界の中にいるらしい。何故だろう?
右手をのろのろと動かし、上掛けの外へ出す。手の甲には異様に膨れた静脈が浮き出ており、脈打つ度に鈍痛が走っている。まるで見知らぬ他人の手のようだ。
ずくん、と半身が疼き、臭気が鼻をつく。
上掛けをめくると、そこに匂いの発生源があった。
左の肩から腕にかけてびっしりと巻かれた、呪紋入りの包帯。
その隙間からのぞく不気味に変色した肉。
あちこちに食い込んだままになっている不気味な触手は、わずかに蠢いている。
(――助かった、って状態じゃないな――)
デイモンメイルの細胞はヒトの肉体を侵食してしまう。おまけに本体から切り離されているため、瘴気を放ちながら徐々に腐っていく。このまま放置すれば、僕は体の大部分を侵食された挙句、腐肉と化すだろう。もっともその前に死ぬだろうが。
「はっ……くうぅっ……!」
突如、全身に激痛が跳ねた。麻痺していた感覚が戻ってきたのだ。
僕は唸りながら歯を噛み締め、瞼をぎゅっと閉じた。そんなことをしてもどうにもならないのだが、他にできることはなかった。
軍医は浄化結界で触手の侵食を沈静化させるつもりなのだろう。それからケガレのひどい部分を切除すれば、助かる可能性も芽生えるかもしれない、と。
だけど僕の体はあちこち侵食され過ぎていた。左の肩から腕には何本も触手が食い込み、首元や胸周りもやられているのだ。もう手の施し様がないことは、素人が診たってわかる。
絶望が胸の内を真っ黒に塗り潰していく。
僕は助からない。長くてあと数日の命だ。このまま蛭が這うように緩慢に腐った肉塊に変わっていくだけの運命なのか。一片の望みもなく、ただ痛みに苛まれて。
(――いっそ結界を外せば……!)
そうすれば侵食は劇的に進む。苦しみは一瞬で終わり、その後は……楽になる。何も考えずにすむ。
これは無意味な苦行だ。耐える価値のない、負けが確定した戦いだ。ならば戦闘放棄は恥ではない。むしろその方が理にかなっているだろう。
ああ、それはわかっている。それは間違いないのだ。わかっているのに、どうしてそれは違うと僕は思ってしまうのか。どうしてまだ死ねないと僕は――
「存外にしぶとい。なかなかに生き汚い奴だな、お前は」
声。また声が聞こえる。どこか愉快そうな、耳慣れない声。
痛みに耐えるうちに気絶して、また夢でも見ているのか。瞼が開かない。体全体が恐ろしく重く、指先一つ動かせなかった。頭がぼうっとしてまともな思考が――
がたん、ごとん、と床が鳴る。衝立が倒れてしまった……?
結界の効力がなくなったのか、触手がもぞもぞと身をよじり出した。
小さく板が軋む音。ベッドのすぐ横に誰かが立っている。
「さて、あまり長居はできん。我が離れていると、アレは木偶同然だからな――」
深く染み透る囁き声。なにかが僕の体の上を滑っていく。柔らかく心地良い感触だった。するりするりと肌を撫でていくこの感じ。昔、これと同じようなことが――
「……ルーミィ……?」
口をついて出たのは、昔飼っていた猫の名だった。僕等が大好きだったかしこい雌猫。子猫の時に妹が拾って以来、ずっと一緒に暮らしていた。彼女はよくこんな風に艶やかな毛皮に包まれた体を擦り付けてきた。
だけどあの猫はもういない。第一、猫は喋らないじゃないか――
「――ルーミィ? それは我のことか?」
怪訝そうな声。肌の上を動いていた感触が止まり、僕はそれが指先であったことに気付いた。誰かが僕の体をさすってくれていたらしい。
「ルーミィ、ルーミィか。ほうほう、ふーむ……悪くない響きだ。気に入ったぞ。よろしい、お前が我の名付け親というわけだ、レイモンド」
くすくす笑いながら少女は――そう、少女の声だ――指先で僕の肌を撫でていく。全身が温かい。いつの間にか触手の動きは止まり、痛みも霧散していた。呼吸がゆっくり、深くなっていく。
「まずは眠れ。だが、我は気が短い。さっさと迎えにくるがいいぞ」
(――いや、ちょっと待てよ。迎えにこいって、どこへ……?)
聞き返す間もなく、僕は穏やかな眠りに落ちていった。
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