花弁雪
僕はぼんやりと座り込んでいた。
朱に染まった草原はただ美しかった。大気は冷え冷えとして澄み渡り、戦いの余韻を伺わせるものはもうなにもない。どこにもない。そう、一欠片も。
意識が戻った時、フィアナの姿は消え去っていた。
「消滅するところをお前に見られたくなかったのだ。わかってやれ」
「……」
「お前はあの娘の苦しみを終わらせた。やれることはそれだけで、我等はそれをやり抜いた。言っておくがそれ以上望むのは傲慢だぞ」
「……」
僕が黙っているせいか、ルーミィは居心地が悪いようだ。怒っていると思っているのかもしれない。それでも答える気にはなれず、遠く霞む北部山脈に視線を漂わせた。
ルーミィは多分正しいことを言っている。
それでも救ってやりたかった。
それは無理だと知っていても。
それは罪だとわかっていても。
僕はただ妹を助けてやりたかったのだ。他の理屈はどうでもよかった。想いは果たせず、約束は履行されず、フィアナは消えてしまった。
左腕に視線を落とす。彼女が僕に残してくれた左腕。
軽く拳を握ってみてもなんの違和感もなく、初めから自分の体だったとしか思えない。
「もうお前に馴染んでいるな。もとはヴァルヴァラの肉だが問題なさそうだ」
フィアナの願いに答えて、ルーミィは彼女を喰べた。そして得た治療法術士の知識を使って僕の左腕を再生したのだった。
消える瞬間、フィアナはなにを思っただろう?
せめて心安らかに逝ったのだろうか?
僕にわかるはずもない。だけど、これが決着だった。
みっともなく未練ばかりを抱えた兄のためにフィアナはひっそりと消えた。だから僕は受け入れなくてはならなかった。彼女が選んだ、この幕引きを。
それに気まずそうにもじもじし始めた女の子をいつまでも放ってはおけないし。
「――君の方は大丈夫なのか?」
「あ、ああ。我の自我は確立しているから、吸収しても大した影響はない。ただ――」
言いながらルーミィは風に吹き乱れる髪を手で押さえる。
「この位は譲ってやってもよい。それに金髪よりもこちらの方が美しかろう?」
艶やかな漆黒に染まった長い髪は確かに紅い瞳によく映えている。僕は腰を上げると彼女の姿をじっくり検分した。
「ま、悪くはないかな」
「……こういう時は嘘でも似合うと言うのだ、馬鹿者め」
「僕は基準が厳しいんだ。知らなかったかい?」
むくれるルーミィに僕はにやりと笑ってみせた。
「不遜な奴め。ふん、その調子なら心配いらぬか。これからたっぷり歩くことになるぞ。覚悟するのだな」
「歩く?」
ルーミィは腕組みして僕を睨んだ。
「阿呆。お前は連合軍とやらに恨まれているであろう。捕まったら、あまり楽しいことにはならんと思うぞ。早めに逃げ出すのが得策だ」
「そんなに急がなくても大丈夫だろ? 君は飛べるし、いざとなれば魔力で……」
「ああ、それは無理だ。お前の腕を再生したせいで我は力を使い果している。ティーガーの修復が完了して境界炉から魔力の補充を受けるまではどうにもならん」
「……なんだって?」
「ちゃんと聞こえているであろうが。白々しく問い返すな、無礼者」
いや、僕は愕然としているだけなのだが。
ルーミィはさっさと歩き始めてしまう。慌てて小さな背を呼び止めた。
「おい、待ってくれよ。ここからトーランまで歩くだって? たった二人で連合軍の追撃をかわしながら? そんなの、何日かかるか知れたもんじゃないぞ! 第一、食料も路銀もない。おまけに僕は肉体労働向きじゃないし、なんの見通しも……」
ルーミィはくるりと振り返った。乱暴に手を振って反論を遮る。
「ええい、あれこれと文句を言うな! お前は巫子のくせにでしゃばり過ぎるぞ。いらぬ心配なぞせずに黙って我についてくればいいのだ。なんにせよ、どうにかなる」
ルーミィは揺ぎ無い事実を告げるように言い放ち、小さな胸を張った。何故か彼女は先行きについて少しの不安も抱いていないらしい。
「ええと……なるかな?」
「なる」
即答かよ。なんだか自分が心配性の老婆になったような気がしてきた。
「……どうして?」
「は、是非もない。お前は我を信じると決めたのだろう? 我もお前を信じる。だからどうにかなるに決まっているのだ。そうであろう、巫子よ」
彼女が浮かべた初々しく鮮やかな微笑に僕は不意打ちを食らってしまった。
まったく、この娘はずるい。そんな風に全身全霊で信頼を預けられたら、否定のしようがないじゃないか。お陰でこれ以上理由を追求するのがはばかられてしまった。
まぁ、確かに。僕等なら多分どうにかできる――のかも知れないな。
「どうかなぁ。前途に神の祝福があるとはちょっと思えないけどね」
むしろ悪魔と地獄巡りと言った方がしっくりきそうだ。
僕の言い回しがお気に召さなかったらしく、ルーミィは目を細めて僕を睨み付けた。
「どういう意味だ、それは。お前、やっぱり我を馬鹿にしているな?」
「してないよ、全然。これっぽっちも」
「している。絶対しているぞ。大体お前は最初からそうだった。我にはちゃんとわかっているのだ! これも良い機会だ。この際、巫子の心得を叩き込んでやる!」
ルーミィは頬を赤らめて息巻いたが、僕には僕の意見がある。
「何度も言うけど僕は巫子じゃないよ。メイルライダーだ」
「馬鹿者! 呼び名は大事だが、それ以上にお前の態度が問題なのだ! お前の役目がなんであれ、我は神だぞ! それなりの敬意を示して仕えるべきであろうが!」
風が宵闇の草原を渡り、背を軽く押していく。さすがにこれ以上ぐずぐずするのはまずい。どんな目に合うにせよ、連合軍に捕まるのは真っ平だった。
「パートナーシップで良いだろ? お互いを尊重して協力し合う。美しいじゃないか」
「駄目だ。お前が思うより、我はお前のことをわかっているのだ。そんなことを言って我をからかって遊ぶつもりであろう。神を神とも思わぬ、不敬不遜の輩め」
「誤解だ。いや、偏見だ。思い込みでヒトを差別するのはよくないよ」
「ほらみろ、そんな調子ではないか! そもそも神と巫子は――」
言い合いながらも歩き出した時――唐突に僕は悟った。
トーランへの道程。この歩みはこれまでとは違う。ずっと留まっていた場所から踏み出して、僕は新たな世界へ向かうのだ。
ここからどこかへ。遥か地平線の彼方、さらにその先へと道は続く。不安はあるけど途中で倒れたって文句はない。どこかに行き着いても、そこからまた歩き出すだけなのだから。
天からの手向けのように見上げた空から白き精が舞い降りた。
掌に収まった今年最初の一片は、見事な花弁雪だった。儚く溶ける結晶をそっと握る。
僕の戦争は、今終わった。




