躊躇
「――これは……これが羽化の最終形態……?」
「違うぞ、レイモンド。ヴァルヴァラは厄神に堕したのだ!」
それは無数に触手を生やした、おぞましく巨大な肉の塊だった。
触手の一本一本はティーガーの胴回りに近いサイズにまで膨張している。先端で鋭い牙をのぞかせている顎は砲口を兼ねているようだ。紅い装甲に覆われていたが、もはやデイモンメイルと呼べる代物ではなかった。
卵型の本体はびっしりと肉腫に覆われ、不気味に蠢動している。時々膨張し過ぎた肉腫が弾け、血肉を撒き散らす。弾けた傍から再生していくが再生する細胞自体が腐っているので、決して癒されることはない。
肉腫を押し退けるようにして、ぽこりと巨大な眼球が形成された。見る間に数を増す大小様々な怪物の眼。それらは揃って腐汁の涙を流し、強烈な憎悪と憤怒を放射していた。
どうして自分はここにいるのか。
何故存在させておくのか。
底なしの敵意が濃い瘴気となって周囲を取り巻いている。それはまさに忌むべきモノだった。
「哀れな奴……存在の矛盾がアレを歪ませたのだ。いや、そうか……! これが狙いだったのか!」
僕は我に返った。独白の意を問うより、優先して彼女に聞くべきことがあった。
「ルーミィ、どうすればいい? どうすれば止められる?」
「無理だ。羽化した上で厄神となったデイモンメイルへの対抗手段なぞない。力の差がありすぎる! ましてお前がその怪我では……!」
言葉を交わす間にも触手は次々襲ってきた。必死に斬り払ったが、どうしても刃の切れ味は次第に鈍ってしまう。やがて太刀は触手を切断し損ね、刀身を食い込ませて止まってしまった。
ティーガーの胴に別の触手がぐるりと巻き付き、人形のように持ち上げられた。締め付けられ、装甲が激しく軋む。かろうじてティーガーは触手の圧迫に耐えているが、それも時間の問題だ。
眼下で蠢く醜悪な肉塊はティーガーを掴んだまま宙に浮き上がって移動を始めた。本体の到達を待ち切れないのか、触手がずるずると伸びて先行し、連合軍部隊の頭上に達する。鞭毛が生えるように細い触手が飛び出し、兵士達に襲い掛かった。
残存していた戦列艦や重砲、オーガスレイブの抵抗は一蹴された。顎から光弾が繰り返し放たれ、弾痕だらけの大地は灼熱の赤に染まっていく。
連合軍はヴァルヴァラの破壊を意図して攻撃を仕掛けた。ならば、どんな反撃を受けようが仕方がない。命のやり取りとはそう言うことだし、戦争であれば尚更である。
だけど、こんなのはあんまりだ。
肉を引き裂くのはいい。骨を砕くのもいい。心臓を抉り出しても構わない。殺しの手段そのものに良し悪しなんてない。それは詰まるところ、趣味の問題だ。
だけど、こんなのはあんまりだ。
意識的に命を奪う時、殺す者はなにかを得なくてはいけない。敗者の躯から幾ばくかの糧を得なくてはならない。それは倫理や善悪以前にイキモノが最低限満たすべき理だ。
だから、こんなのはあんまりだ。
この殺戮にはまったく意味がない。羽化後のヴァルヴァラは魂を取り込む必要はないし、命を奪う背徳の愉悦すら感じていない。己を含む全世界を呪い、ただ死をうず高く累積させ、苦しみを撒き散らしているだけだ。
厄神。
ただ見境なくヒトを殺め、祟りなすだけの荒ぶる神。いつかくる消滅を心待ちにしながら、魂を引き裂かれる苦痛に苛まれ続ける惨めな存在。
フィアナは勝気だけど優しい娘だった。
他人の痛みがわかる娘だった。
差別の中でも芯を曲げない娘だった。
僕は妹を誇りに思っていた。愛していたのだ。
ぎぎぎっ、と装甲が苦悶する。
迷いはなかった。恐らくは残された唯一の手段。それを思いついた瞬間に僕は口に出していた。
「――ルーミィ。僕を喰べてくれ」
ぎょっとした顔でルーミィは振り向く。できるだけ落ち着いた声で僕は繰り返した。
「僕を喰べてくれ。そうすればティーガーは羽化できるんだろ?」
「馬鹿を言え! それではお前が……いや、羽化しただけではどうにもならん!」
「境界炉だ。ヴァルヴァラがどう変形しようと結局魔力の源は境界炉だ。炉心を破壊すればすべては決する。そのためには羽化が必要だ」
僕はフィアナを止める。絶対に止めてやらなくてはいけないのだ。彼女を誰よりも大切に思うなら――ヴァルヴァラを完全に破壊しなくてはいけない。
結局、似た者同士なのか。
僕等は戦うことしか能がない。殺すことでしか救えない。血と肉であがなう以外の術を知らない。それは死から生まれた神と巫子の負った宿命なのかもしれなかった。
「――っ! 嫌だ! それでは約束が違う! お前は一緒に来いと言ったのだぞ!」
逆上したのか、ルーミィは猛烈な勢いで反論してきた。
まいったな。頼むからそんな泣きそうな顔をしないでくれ。
「落ち着いてくれよ、ルーミィ。全部あげるとは言ってないだろ?」
僕はもはや動かない自分の左腕を目線で示した。ルーミィの顔に理解の色が広がる。
「どうせこの腕はもう駄目だ。ここまで滅茶苦茶にされちゃ、治療符も効かないさ」
「時間をかければ治る見込みもある! だが喰べてしまっては取り返しがつかぬぞ!」
「ここを切り抜けないとどうしようもないだろ? 足りるかどうかはわからないが」
「それは――多分、足りる。だ、だけど……」
ルーミィはなおも躊躇している。どうしたんだろう? 彼女らしく――いや。
彼女は僕の前でヒト喰いの本性を晒したくないのだ。言葉で聞くのと目の当たりにするのとでは全然違う。もし嫌われてしまったら、と思っているのだ。
「君のことはよく知っている。全部教えてくれたじゃないか」
「……うん」
「僕を信じてくれ、ルーミィ。大丈夫だから」
「でも……本当に、いいのか……?」
頷く僕に勇気付けられたのか、ルーミィは震えながら血に塗れた左手にそっと触れた。膝を床につき、背を丸めて頬を擦り付ける。たちまち白い肌を赤く汚す血塊を指で擦り取って愛しげに舐めると、少女ははぁっ、と艶やかに息を吐いて沸き立つ歓喜に身を慄かせた。
「ああ――嬉しい。嬉しい……レイモンド……」
ルーミィは両手で僕の腕を抱え込み、肩口に唇を寄せた。小さな歯が深く肉に食い込み、甘い痛みが跳ねた。痛みは熱さを伴って広がり、見る見る肉体を消失させていく。
左腕がすべて消滅するまでほんの十数秒。
ルーミィはそれ以上の早さでティーガーを羽化させた。




