袋小路
フィアナは自分の胸にそっと手を当てた。
「わたしの中には沢山の人がいる。わたしは皆に引き裂かれて、バラバラになりそうなの。わたしは消えるのは嫌。兄様への思いを忘れるのは嫌だった。だからわたしはフィアナ・バスクとしての感情に縋らないといけないのよ」
彼女の話は以前ルーミィから聞いた話と符号していた。
「わたしの中にいる人で、レイモンド・バスクを喰べて悲しいのはフィアナだけ。だから兄様を喰べるわ。悲しくて、つらくて本当に胸が潰れそうだけど……そうしないと駄目なの」
「それがお前の望みなのか? お前は……」
「フィアナはね、勘違いしていたのよ。この娘はただ貴方に一緒にいて欲しかっただけ。フィアナにとって、世界は貴方とそれ以外よ。恋愛なんて言葉に収まる想いじゃない。だから一緒にいてさえくれたなら、兄様が他の誰かと結婚しても不満はなかったでしょうね。もしあの時、兄様に抱かれていたらもう兄妹ではいられなかった。だから兄様が拒絶してくれたことには感謝しているわ」
大蛇に飲み込まれるようにずぶずぶと体が沈んでいく。ぴったり張り付き、容赦なく引き込んでいく肉の壁。獲物を毛一筋たりとも逃さんとする飢えた渇望が肌身に迫り、肌が粟立った。
「怖がらないで、兄様」フィアナは懇願した。
「貴方だけがフィアナの救いだった。あたしは兄様だけを信じられるの。他の誰も比較になどならないわ。だからつらくても、こうするのが一番いい。こうするしかないの。こうすれば永遠に一緒にいられるから」
「――手遅れか。確かにそうだね……」
お前を守るために求めた力。
結果的にそれが僕等を決定的に隔絶させた。
「あたしと一つになって、ずっと一緒にいましょう。ずっと、ずっと一緒に」
それをやればお前はもっと不幸になる。今よりずっと絶望してしまう。どこにもいけない袋小路に追い込まれて未来永劫苦しみ続けることになるんだ。
「あたしには貴方だけいればいい。一緒にいられるだけでいいの。本当にそれだけでフィアナは幸福なのよ……!」
僕の承諾を得られたと思ったのか、フィアナはほっとしたように微笑んだ。
肩までヴァルヴァラの中へ埋没しながら僕は言った。
「僕はもう選んでしまった。だから、一緒には行けないよ」
フィアナの表情が強張る。ようやく兄の瞳にあるものを正しく認識したらしい。
「兄――」
彼女の言葉を待たず、僕は隠し持っていた浄化符を発動させた。かつてフィアナが僕に作ってくれた護符はヴァルヴァラの胎内を清廉な輝きで満たした。光は無数の刃となって触手を引き千切り、肉襞を深く抉っていく。
「ああああああああーっ! いや、いやああああっ!」
痛みと眩しさに耐えかねるのか、フィアナは両手で目をかばって絶叫した。彼女の下半身は肉襞と一体化しており、光に近い部分から皮膚がぼろぼろと崩れていく。汚濁の只中で発動させられたせいで浄化符はすぐに燃え尽きたが、充分なダメージを与えたようだ。
胸部装甲の上に放り出され、僕はティーガーへ飛び移ろうと立ち上がった。
「痛い、痛い……痛いよう……っ! 兄様、兄様ぁっ」
異臭を上げて燻り、醜く爛れた肉襞の中でフィアナは髪を振り乱して泣きじゃくっていた。どうにもならぬ衝動に支配され、僕は振り返った。
「フィア――!」
黒色の髪が素早く伸び、僕の左腕を束縛した。
反応する間もなく圧倒的な力で締め付けられ、あっさり骨が砕かれる。肉をずたずたに引き裂きながら、髪はさらに深々と食い込んだ。血飛沫を上げる腕を押さえて苦悶を漏らす以外、僕にはなにもできなかった。
「どうしてあたしを苛めるの! 兄様が目を覚ますのをずっと待っていたのにっ! もういい。もう潰してからでいい……! 全部潰して……あたしのものにしてあげる!」
絶望に染まった怨嗟の声が胸に突き刺ささり、心を麻痺させた。フィアナの髪は今度は首を狙って伸びてきた。
目前に踊り込んでくる、小さな背中。
少女が手を振ると、髪はまとめて切断され、力を失ってはらりと落下した。ルーミィは即座に振り向き、僕を抱え上げてティーガーの操術腔に飛び乗った。僕を乱暴に座席に投げ込み、何も言わずに後ろに下がる。
僕は片腕で操術桿を掴み、ティーガーを駆動させた。
弱点を守ろうとヴァルヴァラは胸部装甲を閉じかけた。僕は隙間に太刀の柄を突っ込み、胸部装甲をこじ開ける。
「兄様! そんなにあたしをっ……!」
肉襞の奥から悪鬼の表情でフィアナが叫ぶ。ヴァルヴァラが腕を払うとティーガーは跳ね飛ばされた。物凄い力だ。ヴァルヴァラの胸部装甲は歪み完全には閉じなくなったが、ティーガーの方は胸部装甲自体を喪失している。
下がるティーガーをヴァルヴァラは右手を振り回しつつ追撃した。川岸まで後退したティーガーは足をとられたようにたたらを踏む。それを機と見たか、ヴァルヴァラはティーガーの操術腔目掛けて真っ直ぐに右手を伸ばし、突っ込んできた。
僕は迫ってくる巨大な指先を見つめた。
ナジール・ロドネイであれば、こんな誘いに騙されなかっただろう。
深く腰を落としてティーガーを低姿勢にすると僕は搭載砲を射撃位置へ動かした。間髪入れず、巨体を揺るがす衝撃が走る。前方に伸ばされた砲身が突進してきたヴァルヴァラの胸部装甲の隙間に突き刺さっていた。
文字通りの零距離射撃――これでは呪壁も意味を成さない。
発砲と着弾はほぼ同時。猛烈な爆風が操術腔に吹き込む。
炸裂モードで放たれた砲弾はヴァルヴァラの胎内を引き裂き、境界炉を剥き出しにした。わずかに姿勢を変えて、焼けた砲口を境界炉に押し当てる。これを壊せばすべてが――
「にい、さ……」
境界炉の周囲の肉が変形し、フィアナの姿を形作る。
「どうして……どうして、あたしと一緒にいてくれないの! どうして、約束したのに、どうして! ひどいよぉ……こんなの、ひどいっ……!」
別れの際に聞くにはあまりに悲しい慟哭。彼女は僕を――心から慕っているのだ。
ヴァルヴァラの爆ぜた肉がぴくりと動く。
「――! おい!」
ルーミィの警告と同時に肉から数本の触手が現れた。触手は爆発的に増殖し、ティーガーの巨体を押し退ける。右腕だけでは対応し切れない。
「ルーミィ!」
彼女は僕の意を素早く解し、左側の操術桿に飛びついた。太刀を振って触手を切断。さらに追ってくる触手の群れを逃れて僕はティーガーを後方へ跳ばせた。
どうにか間合いをとった時、ヴァルヴァラは最後の変化を終えていた。




