神罰
「どうしたの、兄様。ナジールさんとお話しないの? この前会った時はバタバタしてたし、積もる話もあるんじゃないのかしら?」
ナジールの背後に立つ、すらりとした女性。
彼女は含み笑いをしながら前に歩み出ると、均整の取れた体を風に晒して誇らしげに胸を張った。その冷たく冴えた美貌の中に確かに妹の面影があった。
「フィアナ……なのか……?」
「ええ、兄様。あたしも、ちょっとは大人っぽくなったでしょ?」
にい、とフィアナは唇を吊り上げる。
笑みと呼ぶにはあまりに禍々しい表情に背筋が震えた。
「これはどういうことだ? ナジールはどうしたんだ……!」
「この人? 生気を吸い尽くしただけよ。あたしはもうすっかり大人に、一人前になったからこんな人はいらなくなったの」
フィアナは首枷を付けたままだ。鎖こそ切られていたが、両手首にも枷が嵌められている。僕の視線にフィアナは気付いたらしい。
「ああ――これ? もうこんなものは役に立たないわ。皮肉よね? ナジールさんがせっせと獲物を与えてくれたお陰で思ったよりも早く成長できたのよ。ほら」
ぱきん、と乾いた音を立てて枷は一斉に壊れ、彼女の体から転がり落ちた。
白い指先がナジールの顔を撫で下ろす。
「さっさと始末しても良かったけど……気が済まなくて。この人……こいつ、あたしを触ったのよ、兄様。あたしの意識がはっきりしないのをいいことに、こんな枷を嵌めて。何度も触れてきた!」
突然激昂し、フィアナはナジールの頬を平手で張った。唇が裂けて血が流れ出したが、ナジールは瞬きもしない。かすかに隆起する胸だけが生存の証だった。
「何度も触られた……! こいつ、何年もそうしたのよ! あたしに触れていいのは兄様だけなのに! 誰が触っていいって言ったのよ? お前、お前なんかいらないわ。気持ち悪い。吐き気がする。気持ち悪いのよ、お前!」
頭部を鷲づかみにして、フィアナはナジールを開いた胸部装甲の上に叩き付けた。鈍い音を立てて跳ね上がり、ぐにゃりと這いつくばるナジール。抵抗するどころか、もはやうめき声を上げることさえできないらしい。
「兄様を聖堂入りさせたのはこいつなのよ」
「なん……だって……?」
「ロドネイ家の推薦がなくて移民の子が聖堂入りできると思う? 実力的にはともかく、兄様は候補から外されるはずだったの。それをこいつがっ……! こいつ、あたしの気持ちに薄々気付いていたのね。だから邪魔な兄様を排除しようとしたのよ」
ナジールを侮蔑の表情で見下ろし、フィアナは彼の背中へすっと右手を伸ばした。次に起こることは明白だった。
「やめろ、フィアナ!」
「兄様が聖堂に入ってから事件まで二週間あったわ。その間、あたしがどんな目にあったか……わかるでしょう、兄様? あの館はね、素敵な地下牢があるのよ。馬鹿な小娘を躾けるのにうってつけの暗い穴倉がね」
彼女は責めるように僕を見た。
「館の皆が、すごく率直な意見をぶち撒けに来たわ。皆が本当はあたしのことをどう思っていたか。あたしのことをどうしてやりたかったのか。恩知らずの売女にふさわしい扱い方はどういうものなのか。ええ、あの時はっきりわかった――助けてくれる人なんて誰もいるはずがなかったのよ」
僕がいた。
僕が助けるべきだった。
僕は彼女を守ると約束したのだ。フィアナが責め苦に耐えている間、僕は自分のことしか考えていなかった。詰られて当然だ。
だけど、ナジールはフィアナを愛していたはずなのに。
プライドの高い彼が全てを捨てる覚悟で選んだ、救貧院出の移民の娘。彼女の心が自分ではなく兄に捧げられていると知った時――彼は狂ってしまったのだろうか。
人には色々な面がある。確かにある。
でも僕はそんなものを知りたくはなかった。目を逸らしていた。ナジールとフィアナの関係も僕が聖堂入りした後のことも、真剣に考えればある程度は予想できたはずだ。いや予想できたからこそ、僕は逃げたのかも知れない。
その結果がこれなのか。
「十日たってこいつは根負けしたって言ったわ。兄様に会わせてやるって、聖堂入りを諦めるよう説得させてやるって、そう言ったのよ。あたしには聖堂も安置所も区別がつかなかった。どこに連れて行かれても騙されているって気付かなかったの。手首を切られて、自分が殺されるんだってわかるまでは。触手に襲われて、ぐちゃぐちゃに喰い千切られるまでね!」
僕が抱えているルーミィに目を落とすと美貌が嫉妬に引き歪んだ。
「せめて兄様のデイモンメイルに……ティーガーの生贄にされていれば良かった。そうしたら兄様とずっと一緒にいられたのに……兄様の隣にいたのは、あたしだったのに! だからあたしには復讐する理由があるわ! たっぷりあるのよ!」
「フィアナ、やめろ!」
岩が落下してきたかのようにナジールの背骨が乾いた音を立てて叩き折られ、内臓が破裂した。膨大な魔力の塊による打撃。まさに神罰と呼べるほどの圧倒的な不可視の一撃だった。
「お前のせいで、あたしは何年も兄様に会えなかった! いつもいつもお前は邪魔なんだ! どうしていつも邪魔するのよ? 兄様を遠くに連れて行くのはいつもお前なんだ! 優しい言葉をかけてあたしを騙して、いつも兄様から引き離す! どうしてそんなことばかりするのよ! お前は、お前は、お前はっ!」
フィアナはナジールを糾弾し続けた。
彼女が叫ぶ度に見えない拳が咎人に振り下ろされた。ヴァルヴァラのメイルライダーがずたずたの血袋になっても、フィアナは手を緩めない。最初の一撃でナジールは間違いなく絶命していた。それは彼が得た最後の幸運だったろう。
やがてすべてが押し潰され、血溜まりの中に幾つかの肉片が残るだけになった。
「ばいばい、ナジールさん」
フィアナがそうつぶやくと血溜まりは自ら意思を持ったように胸部装甲の上から流れ落ち、後にはわずかな血痕も残らなかった。
凄惨な光景に言葉を無くした僕に、フィアナは悪戯を見つけられた時のように照れ笑いをした。笑みに溢れた無邪気な思慕が恐ろしかった。
「――あたしを羽化させるためにナジールさんも色々頑張ってくれたの。あの忌々しい呪縛のお蔭で、あたしは半分人形みたいになっていたから。だから抵抗しなかったの。ううん、できなかったのよ」
フィアナはすがるような表情で訴えかけた。不安に揺らぐ瞳は先ほどまでの残忍さを微塵も感じさせず、組んだ指先をもじもじと動かしている。
「だから怒らないでね、兄様。迎えにくるのも遅くなったけど許してくれるよね……?」




