信頼
救貧院は石造りで、冬にはひどく底冷えした。
子供達の部屋は大広間を鉄格子で仕切っただけの素通しだった。確かに管理はしやすいだろうが、これでは熱を溜めておくことができない。震える体を寄せ合って僕とフィアナは眠った。
管理士達は僕等を怒鳴りつけるのが日課だった。
仕事をこなせない時、反抗した時、泣き出した時、あるいは単なる憂さ晴らしや楽しみのために、容赦なく体罰が振われた。フィアナを庇う分、僕は余計に殴られた。
啜り泣くことすら許されない、あまりに惨めな境遇。
どこからも助けは期待できない。世間は救貧院にやっかい払いした子供のことなど忘れてしまう。移民、不義の子、先天的障害児。色々な子供達が入ってきたが、大半はほどなく磨耗し切り、人間らしい感情を喪失してしまった。
それでも僕はどうにか持ちこたえた。
僕を必要としている人間は間違いなく一人はいる。ならばあと少し、もう一日だけ頑張ってみよう――それは虚勢ではあったが、そうやって積み重ねた一日一日が僕を成長させ、強くした。妹を守る義務は重荷ではなくむしろ支えだった。
フィアナが与えてくれた無条件の信頼がなかったら、僕も皆と同じように残酷な現実に膝を折っていただろう。
彼女を助けることで僕は自らの救いを見出したのだ。
しかし今のフィアナに会って僕はなにができるのか。なにをしたいのか。答えは出なかった。
「……わからない。でも行かなくちゃならない。全てに決着をつけなくてはいけないんだ。それがどんな決着になるにしても」
口に出してしまうと少し気持ちが落ち着いた。
どうせ逃げ場はない。やるしかないのだ。
気付けばルーミィは紅い瞳を底光りさせて僕を凝視していた。わずかに唇が開く。
「――お前に隠していたことがある」
かすれた囁き声は弱々しく途切れがちだった。
「我は――ヒト喰いだ。この身はヒトの魂を欲する渇望から生じたものだ。性格云々ではなく、性根がそうなのだ。生来の資質という奴が」
表情をかき消した容貌は美しい分、不吉な影を際立たせてしまう。ルーミィが奇妙に遠く見えた。彼女の周りに見えない壁があって誰もその身に触れられない気がした。
「あの男が言っていたことは本当なのだ、レイモンド。我が羽化するのに一番早いのは――」
待て、と言いかけて僕は口を閉じた。
聞くべきなのだ。彼女は語るべきだと信じることを語っている。だから聞かなくてはいけない。
「一番早いのは――お前を喰うことだ。我等には羽化への強い衝動がある。お前は最上の巫子であり、生贄としても最適なのだ。本当はあの時……ティーガーが撃たれてお前が怪我をした時、我はお前を喰べてしまいたかった」
「でも君はしなかった。それが事実だろ?」
「お前のためじゃない。我は自分のために踏み止まっただけだ」
肩を落とし、ルーミィは頭を垂れた。心底己に失望し、身の置き場さえないような悄然とした姿。こんな彼女を見たくなかった。
「我はお前に呼ばれて生じた。我はお前だけの神だ。巫子を守り、共に戦うのが我のすべきことなのだ。もし己が巫子を喰い殺せば根源に致命的な傷を負い、厄神になってしまうだろう」
神や精霊は存在に関わる矛盾を犯せない。だから殺す神であるルーミィも巫子だけは殺せないのだ。
僕はやっと本当に理解した。
この少女がどれほどの思いを持って僕を求めていたのかを。
彼女の孤独は癒し難く、絶対で。
全てのモノから遥か隔たれた場所に立っている。
最初から、そのように彼女は生まれた。
彼女に繋がるものは誰もいない。誰一人としていない。本来の根源は別の世界であり故郷から見捨てられた残骸から生まれ出でた存在だった。彼女はたった一人の彼女だった。
「――お前は我を中々受け入れてくれなかった。お前にとって我は邪魔者だった」
「そんな……」
そんなことはない。そう言ってやれれば良かったのに。
乾いた口調でルーミィは続けた。
「ティーガーと己の間に挟まる邪魔者。そうであろう?」
「うん……そうかもしれないな。妙な話だけど」
つくづく僕は心の狭い人間らしい。
ナジールからフィアナとつき合っていると聞いた時、僕はひどく動揺した。二人に裏切られた気持ちになった。いずれにしても聖堂入りは拒否できなかっただろうが、あれほどすぐに応諾したのは僕の居場所がなくなったように感じたからだ。
結果、フィアナは妹であることを投げ捨てた。
ナジールは愛する恋人を殺害してしまった。
一連の出来事もあって僕は無意識のうちに絶対の絆をティーガーに求めた。意思のないデイモンメイルなら裏切ることはないと思ったのだ。それは間違いだった。どうしようもなく誤った認識だった。
本当の絆を紡げる相手には必ず意思がある。手は双方から伸ばさないと決して届かないのだ。
「巫子に拒否され、邪魔にされる神など惨めなだけだ。いっそお前を喰って羽化したいと何度も思った。たとえ厄神となってしまってもな。実際、我は後一息で羽化できるのだ。その分衝動も大きくなって、もう少しで我慢し切れなくなるところだった。いや今でもそうなのだ」
ルーミィは顔を上げた。
「我の話はここまでだ。……で、どうする?」
腰に手を当て、しゃんと背筋を伸ばす。瞳に強い意志の光が灯り、彼女は彼女らしく宣言した。
「我はヒト喰いだ。己の都合があり、欲があり、衝動がある。戦闘に関すること以外ではお前の言う通りには動かぬ。ことによっては羽化を優先して、お前を喰ってしまうかも知れんぞ。それが嫌なら降りろ。我はそれでも構わぬのだ。他の巫子を探せば良いだけなのだからな!」
やっぱりこの娘はまだ子供だ。
偉そうにしていてもこんなに嘘が下手なんて。我知らず、僕は苦笑を浮かべていた。目ざとく気付き、ルーミィは見る見る真っ赤になって怒り出した。
「――! なにをにやにやしているのだ! 我は――」
悪いと思いつつ、僕はさらに笑ってしまった。
だって仕方ないじゃないか。つい昨日のことなんだから僕はちゃんと覚えている。ルーミィが「もう少しで我慢し切れなく」なりそうだった時のことを。
あの時、彼女はひどく震えていた。
脂汗を流し、心底怯えながら、必死に耐えていた。己を突き上げる衝動を堪え、僕に心を開かせようと懸命に努力していた。そんな姿を僕は見ているのに喰ってしまうかも、なんて脅しにしてもあからさますぎる。
「お前と言う奴はどこまで無礼なのだっ! 笑い事ではないのだぞ、これは!」
いよいよルーミィは怒り狂い、両手を振り回して地団駄を踏まんばかりになっている。猫がじゃれてきているみたいだが、彼女が実力行使に出たら引っかき傷位ではすまないだろう。
「くっくっくっ、わ、悪い」
僕は頬を叩いてどうにか笑いを収めた。軽く咳払いすると、地に片膝をついてルーミィと視線を合わせる。差し出された僕の右手を見て、彼女はきょとんとした。
「僕は君を信じる。一緒に来てくれ」
信じること。誓うこと。それはやはり怖いことだ。
それは僕だけに言えることじゃない。誰だってそうなのだ。信じることで誰かが僕を傷付けられるように、きっと僕も誰かを傷付けてしまう。時には取り返しのつかないほど深く。
心から誰かを信じ、求めることには勇気が必要だ。
でもそうしなければずっと一人ぼっちでいるしかない。
だからもう一度信じよう。僕を求め、信じてくれる彼女を。
「僕が巫子かどうかは自信がない。君を神と呼ぶのも難しい。あと喰われるのは嫌だから絶対勘弁して欲しい。だけど、とにかく僕には君が必要なんだ。戦いだけじゃなくてね。一緒に来てくれ、ルーミィ」
「……あれこれと条件をつけるのはみっともないぞ、男のくせに。それになんだかその言い回しだと、我とお前の立場があべこべに聞こえる」
不満を表明しつつ、ルーミィは僕の手をそっと握り返した。
初めて出会った時と同じような月明かりの差す森で、僕等はお互いの心を預け合った。




