畏怖
ラウル峠の手前に広がる森林地帯はあまり人の手が入っていない。木々は密に生い茂り、樹齢数百年に達する大樹も多い。お陰で見通しが利かず、避難民達には格好の隠れ場所だった。
帝都陥落の報を聞き、ファーレン公爵は残存人員を連れて館を出発した。全員が虎の子のストーンシップと馬車に分乗していたため足は速く、夜闇が辺りを包む頃には彼等も森に到着していた。
「抑制呪式、という言葉を聞いたことは?」
ファーレン公爵は天幕の中を見渡したが反応する者はいなかった。
「であろうな。これは帝国の特秘事項だ。――が、もはや意味がない。今思えば、あらかじめメイルライダー全員に伝えておいた方が良かったのかもしれん」
「つまり我々やデイモンメイルに起こった変調と関係があるんで?」
カリウスがたずねる。彼は頭を負傷して包帯を巻いていた。胸部装甲を開いていたせいでクルスクが停止した時に河へ放り出されてしまったのだ。
「ある。要は呪縛だ。帝国魔導院の地下には呪式の触媒として、メイルライダー全員の血液と、各デイモンメイルの脊椎の一部が保管されていたのだよ」
長い髭をひねりながら公爵は説明した。
「デイモンメイルは諸刃の剣だ。帝国の成立はデイモンメイルのお陰だが、だからこそメイルライダーの反乱をなにより恐れた。そこで予防措置として抑制呪式でメイルライダーの思考制御を行っていたのだ。元々はメイルライダーに精神の均衡を保たせるための補助呪式だったそうだが」
公爵の言葉にカリウスは不愉快そうに首を振った。狂気じみた愛国心はともかくメイルライダーにはそれなりの矜持がある。抑制呪式のせいでクルスクを遺棄せざるを得なかった彼には、なおさら腹立たしいようだ。
ポールは腕組みしつつ、喉の奥でうなった。
「魔導院ごと触媒が破壊されたなら余波は必ず本体に及ぶ。炉が停止したのはそのためか」
実際、帝都に展開していた全デイモンメイルに影響が及んだらしい。戦闘中にメイルライダーが混乱状態になり、境界炉が停止すれば、後の運命は推して知るべしだった。確認できる範囲で健在なデイモンメイルは、ティーガー一体のみなのだ。
ファーレン公爵は頷いてポールの見解を支持した。
「うむ。恐らく小編成の別働隊が帝都に潜入し、魔導院を破壊したのだろう。総攻撃自体を陽動に利用したのだよ」
「しかしそりゃ変ですぜ。ナジール・ロドネイは平気で裏切り、ヴァルヴァラは十年間も好き勝手に動き回っていたじゃないですか。味方にしか効かない呪縛なんてありですか?」と、カリウス。やり場のない怒りが尾を引いているらしく、彼にしては攻撃的な口調であった。
「さぁ、わしにはわからんよ。個体差があるのかもしれんし、呪縛の存在に気付いていれば対抗呪式を組むことも――」
なだめる公爵の言葉を背で聞きながら僕は天幕の外に出た。
□
避難民達はティーガーを避けていた。少し離れた場所にはそこかしこに焚き火の明かりが点在しているのに、彼等の脱出を援護したデイモンメイルの近くには誰もいなかった。
それも無理はない。デイモンメイルにまつわる様々な噂のほとんどは真実を含んでおり、畏怖を呼ぶ種類のものであった。ルーミィのような化身によって制御されていないデイモンメイルがひどく危険なことは事実なのだ。
孤高の巨人は夜露に濡れて沈黙し、辺りには虫の音さえない。
「ルーミィ――君はどう思う?」
「……メイルライダーへの呪縛とデイモンメイルへの呪縛では目的が違うのかもしれん。我が思うに、抑制呪式はちゃんと効いていた。だから奴等は帝都を攻撃したのだ。覚醒して自我がある分、呪縛に抵抗できたであろうが、触媒を押さえられている以上、まったく効かぬわけがない」
僕の傍らにルーミィが出現していた。ティーガーの足に背中を預け、天空の月に顔を向けている。彼女は僕と視線を合わせようとしなかった。
僕は彼女を裏切ってしまった。
抑制呪式から急に解放されて混乱した僕は、デイモンメイルに恐怖し、ルーミィを拒絶してしまった。悪意があったのではない。あれは押さえつけられていた本能的な恐怖の噴出だった。
だからこそ彼女の傷は深かったろう。
言い訳のしようがない深層心理の発露は、築き上げ始めたばかりの信頼を根こそぎ喪失させてしまった。一体どう償えばいいのか、僕にはわからなかった。
「お前の妹を生贄にして、ヴァルヴァラは覚醒したのだと我は思っていた。だが、違う。それだけではなかった。あれは一気に羽化しようとしていたのだ。昼間の様子からして間違いない」
羽化。以前調整施設で聞いた話によれば、それがデイモンメイルの化身が目指す最終目的らしい。
「じゃあ、逃亡した後に抑制呪式をかけられて羽化が途中で止まった……?」
「恐らくはな。メイルライダーの抑制呪式はヴァルヴァラの神が解呪したのだろう」
フィアナは治療法術士としての優れた才能があった。彼女の技量と境界炉の莫大な魔力があれば、不可能なことではなさそうだ。
「だが呪われている本人が自らを解呪するのは困難だ。だからヴァルヴァラの呪縛は解けなかった。それで触媒の破壊を狙ったのさ。どうしてお前を助けたのかは、知らぬがな」
仮説ではあったが辻褄は合っていた。
つまるところ魔導院の反乱予防措置はあまり有効には働かず、カリウスの言う通り味方の足を引っ張るだけの結果となってしまったわけだ。僕はさらに聞いた。
「デイモンメイルが羽化するとどうなるんだ?」
「わからぬ。完全にヒトの手を離れるだろう、としか。我にも経験がないことだから」
ナジールの台詞を思い出す。彼はフィアナを神にすると言っていた。ルーミィのように巫子一人で満足する慎ましやかな神ではなく、大陸に君臨する神に。
可能な計画とは思えない。
だが彼はそのために大勢の人々を虐殺したのだ。
「……あいつは、ナジールはいい奴だったんだ。移民の僕等兄妹に本当に良くしてくれた。だからわかるんだよ。今のナジールは狂っている。それなら僕が行ってやらないとな。僕はあいつの友達なんだから」
「狂わせたのが、お前だとしてもか」
目を逸らせたまま、ルーミィは小声で言った。
彼女は静かな水面にあえて石を投じた。それがわかる程度には僕はルーミィを理解し始めていた。
「そうだよ。誓いはまだ死んでいない。もし僕が原因なら、余計そうしないと」
「――妹のことはどうするのだ?」
返答に窮し、僕は唇を引き結ぶ。
森を抜ける夜風は切れるように冷たい。妹の細く弱々しい腕から伝わる温もりを僕は今でも覚えているのだ。




