思慕
聖堂入りの要請を受諾する。
僕は帝都からの書状を見せてフィアナにそう告げた。
驚くだろうが、最初の動揺が収まればきっと僕を誇りに思ってくれる。メイルライダーとしてこれ以上の名誉はないし、彼女にはナジールとの新生活が待っているのだ。
ところがフィアナの反応はまさに狂乱と呼べるものだった。
□
自室の質素なベッドに寝転がって、天井を眺めた。
昼間はあちこちへの挨拶回りに追われた。幾日も連続して祝いの宴が設けられており、いささか宴席疲れもしている。思えば帰郷後に夕食を自宅で食べたのは今夜が初めてだった。
ナジールの父親は大喜びだった。一つの家からメイルライダーが同時期に二人出ただけでも稀有なことなのに、一人が聖堂入りしたとなれば大変な騒ぎになる。移民の僕等兄妹を引き取ったせいで少なからぬ中傷を受けていたはずだから、喜びもひとしおだったろう。もちろんナジールも賛成してくれた。
聖堂に入って眠りについたが最後、もうこの天井を見ることはない。
次に目覚めた時にはこの小屋――いや、ロドネイ邸自体、なくなっているかもしれない。そう思うと枕元の丸テーブルの上で灯る古ぼけたランプさえ妙に懐かしく、貴重な品に感じられてしまう。
泣き叫び、取りすがってくる妹の顔が目に浮かんだ。
僕の決意が変わらないと悟ると、フィアナはロドネイ邸の使用人部屋に閉じこもってしまった。この二日、僕は彼女の姿を見かけていない。
かわいそうなことをした。休暇はまだたっぷりあるのだ。もう数日、甘えさせてやってから言えば良かった。だが、ナジールがいる。彼がフィアナを慰めてくれるに違いない。聖堂に入る時期はある程度自由に選べるから、二人の結婚を見届けてからにさせて貰おう――
そんなことをぼんやり考えるうちに、僕は眠りについていた。
□
衣擦れの音、甘ったるい香の匂い。
いつ覚醒したのか僕にはわからなかった。寝ぼけているのか、頭に霞がかかっているようだ。体を動かそうとしたが妙に重く途中で止めてしまった。
部屋の中には僕以外の誰かがいる気配があった。
と言っても、ここに来るのはごく限られた者だけだ。
「起きたのね、兄様」
笑いを含んだ声はやはりフィアナのものだった。どうやら機嫌が直ったらしい。それにしてもいつの間にか朝になってしまったのか。僕は半ば瞼を閉じたまま尋ねた。
「ああ――寝過ごしたかな……?」
「違うわ、まだ真夜中よ」
熱っぽい囁き。ベッドがきしみ、腰の両脇のマットレスが沈み込む。腹部になにかが圧し掛かり、僕はしぶしぶ目を開いた。
「……? お前、なにやって……」
フィアナが僕を見下ろしていた。何一つ身につけずに。
真っ白な裸身がランプの薄明かりの中に浮かび上がっている。彼女は僕にまたがり、下腹に腰を下ろしているのだった。
「え……っ? な、フィアナ……?」
僕は瞬きして必死に意識をはっきりさせようとした。自分の瞳に映っている光景が現実とは思えなかった。
「兄様……ちゃんと女らしくなってるでしょ……? あたしだってもう子供じゃない。ちゃんと愛して貰える体なのよ……」
「フィ……アナ……? 馬鹿、やめろ……!」
妹の手を振り払い、僕は上体を起こそうとした。
ところがフィアナは簡単に僕の両肩を押さえつけてしまった。髪が垂れ下がり、僕の頬を弄うようにくすぐる。濡れた紅唇が吊り上がり、笑みが形作られた。
こんなことをフィアナがどうして。
「無理よ、兄様。この香に慣れてない人は動けなくなっちゃうの。ラスロ先生のところから、貰ってきたのよ」
甘い匂いはランプから漂ってきていた。
この匂い。頭が痺れて、力が入らなくなる。これを嗅いでいては駄目だ。
そう思ってもまるで力が出ず、フィアナの手を振り払えない。
「フィアナ、放せ……!」
「嫌よ、兄様」
「悪ふざけもいい加減にしろ! やめないか、フィアナ!」
怒鳴る僕の顔に、ぼたぼたと水滴が落ちてくる。
伝い落ちる雫の冷たさが怒気をしぼませた。滂沱たる涙を流すフィアナを僕は呆然と見つめた。
「嫌……いや、いやっ! やめないわ!」
良く見知った妹の顔が、急に見覚えのない容姿へ変貌してしまったように感じた。目の前の少女は――心底僕を恋い慕っているらしい。身も世もないほどに。
誰だ。これは、誰なのだ。
「だって、こうしないと兄様はあたしを置いて行ってしまう。ずっと待ってたのに……ずっと我慢していたのに、そんなのってないわ! 兄様がいなくなるなんて、耐えられない。昔からずっと好きだった。あたしには兄様しかいなかったのに!」
体を震わせ、フィアナは絶叫した。
心の奥に秘めていた思慕を表に解き放ち、思うさま叩き付ける快楽が彼女を酔わせ、精神のタガを取り払ってしまったようだった。
「なにを……言っているんだ。お前には、ナジールが……」
「やめて! あたしだって、忘れようとしたのよ。こんなのおかしいって。ナジールさんと付き合って見れば気持ちが変わるかもって。でも、やっぱりあたしには兄様しかいない……兄様以外の誰にも触れさせたくないの!」
思いの丈を叫びながらしがみついてくる細い肢体。
これは妹ではない。フィアナはこんなことをしない――はずだ。
「どうしようもないの……自分でもどうしようもないのよ……! だから、お願い。お願いだから、あたしを置いていかないで!」
哀願の色をたたえた瞳。
僕を切望する声が胸を衝く。
やめてくれ。
昔からずっと好きだった、なんて――そんな。
じゃあ、僕はどうすれば良かった?
気落ちを察して受け入れてやれば良かったのか? 哀れみでお前を抱いたとしてもそれでどうなる。兄妹をやめるわけにはいかないのに。僕等は家族だったのに。どうして壊そうと――
「一緒にいて! あたしを……置いていかないで!」
甘い匂いが思考を鈍らせる。僕の抵抗は弱まり、二人の唇が重なった。
「……!」
力を振り絞って、僕はフィアナを突き飛ばしていた。
□
ナジールは全て察したらしい。彼は恋人を心配し、使用人に様子を見張らせていたのだ。深夜に使用人部屋を抜け出すところをフィアナは見られていた。
休暇はまだ残っていたが僕はすぐに帝都へ戻った。
ナジールとフィアナの近くにいることが居たたまれず、正式発表も儀式の準備もまだだと言うのに聖堂に入った。
そしてそのまま十年眠り続けたのだった。




