贖罪
ソレを認識した瞬間――僕は護身用の短剣を抜き放って結界を駆け出していた。フィアナのこともルーミィのことも、頭から吹き飛んでいた。
斬りかかった僕を、ナジールは簡単にいなした。
なにがどうなったのかわからないが、僕は胸をしたたかに打たれて地に伏した。息が吸えず、脂汗がどっと出てくる。短剣がどこかに転がる乾いた音が、何故かくっきりと耳に届いた。
「お前に剣は無理だと忠告してやっただろ? 見た目も性格もあの頃のままだな。十年たつのに全然成長していないとは、がっかりだぞ。ま、眠っていただけだろうから、仕方ないが」
「ぐ……っ、ナジール……!」
端整な面立ちは成人男性のものになっていたが、紛れもなく彼はナジール・ロドネイその人だった。胸を押さえて切れ切れの呼吸をする僕を、ナジールは余裕たっぷりに眺めていた。
「に、にい、さ……」
僕と同じように地面に転がっていた少女が、痙攣しながら起き上がろうとする。少女の瞳は、明らかな意思の光を湛えて僕を見ていた。
ナジールが軽くロッドを振ると、少女は苦悶の叫びを上げた。首と手に嵌められた枷の紋様が光っている。枷はロッドと連動して犠牲者を自在に苛むらしい。
「やめろ、ナジール! やめてくれ!」
にやりと笑って、もう一度ナジールはロッドを振った。枷からの責めが止み、少女はぐったりと横たわった。気絶したのか、完全に脱力している。
「あれに少々手を焼いてな。折角生じた精霊なのに、一向に自我が現れん。こっちの言う通りに動くのはいいが、木偶同然では躾も面白くない。お前に会わせればもしかして、と思ったのさ。ついでに食事をさせていたんだが、そっちの方からやってくるとはな。そう言えば、昔からお前は中々使える奴だった」
「貴様――あの娘は――まさか、あの娘は――」
この期に及んで躊躇う僕のざまが可笑しかったのか、ナジールは心底愉快そうに笑った。僕には馴染み深い――だが彼からは一度も向けられたことがなかったはずの、傲慢な笑み。
賤しい移民を蔑み見下す、貴族の嘲笑だった。
「フィアナだ! フィアナだよ! 俺も今の今まで確信はなかったが、お前を兄と呼ぶ女が他にどこにいる? くくくっ、これはどんな奇跡だ! フィアナは――本当に蘇った! 信じられるか、レイ。素晴らしいだろう! 俺はフィアナを神にするぞ。ロアン大陸に君臨する女神にな! それだけの力がデイモンメイルにはある!」
ぎらつく瞳は狂信の濁りに染まっている。反論を許さぬ、絶対的な信仰。かつてのナジールとは別人のようだった。
「だが、そのためには戒めを解かねばならん。この戦争は、言わばフィアナを神へ至らせるための儀式だ。死の女神の誕生に相応しい、血塗れの儀式なのさ」
「な、に……? なにを……!」
「わからなくていい。ただ邪魔はするな。レイ、これはお前のためにもなることだ。だから、二度と俺の邪魔をするなよ。あの晩のように俺を裏切るな! それがお前の誓いだろう。もし余計な手出しをしたら、今度こそ殺すぞ!」
ロッドの宝玉が光を帯びる。気を失っているフィアナの体が浮き上がり、ナジールの両腕の中へ収まった。ナジールは未だ結界に捕らわれているルーミィに皮肉な視線を向けた。
「ティーガーからも精霊が生じたとは驚きだ。やはりお前とは妙な縁があるようだな。――一つ、忠告してやろう。いいか、あの精霊を信用しすぎないことだ。奴等が手っ取り早く最終段階に進むには、優れたメイルライダーを直接捕食するのが一番なんだ。基本的には召喚者に従うだろうが、油断しない方がいい。喰い殺されたくはないだろ?」
「なに、を……ふざけるな、ナジール……!」
僕は必死で身を起こした。どん、となにかの炸裂音が響き、突風が丘を吹き払う。仰ぎ見たそこに、ヴァルヴァラが出現していた。
「信じるかどうかはお前の自由さ。いずれにせよ、お前は俺に敵わない。知っているはずだ!」
□
日の落ちた丘の麓で、公爵家の使用人達は重労働に狩り出されていた。掲げられた松明に照らされて幽鬼のように揺らめく影が、作業の陰惨さを際立たせている。
見渡す限りの死体の山。
こぼれ落ちた臓物や散らばった体の一部を拾い集めて運び出し、浄化し、埋葬する。一連の作業は死霊を呼ばないための単なる手続きと化しており、疲労に塗り潰された使用人達の顔からは、死者への同情や憐憫の色を窺い知ることはできなかった。
避難民達は鏖殺されていた。文字通りの皆殺しで、犬まで殺されていた。死体の様子から、デイモンメイルの触手による殺戮ではないことがわかった。
鋭い爪で腹を貫かれた死体。
恐ろしい力で体中の骨を砕かれた死体。
黒い髪を喉に絡み付かせた死体。
ナジールはフィアナに彼等を殺させたのだ。デイモンメイルは捧げられた生贄の数だけ強力になるからだろう。覚醒して暴走の心配がなくなった以上、生贄は多いほどいい。相手が兵士か民間人かなんて、別段関係ない。むしろ簡単に殺せる相手の方が効率的だ。
ああ、僕にも理屈はわかる。
わかるが、やれない。それが僕とナジールの差だった。
紅いデイモンメイルは風を巻いて姿を消してしまった。屈辱と混乱を僕に残して。
「――いつまでこんなことをしているつもりだ。いい加減、館に戻って休め」
天幕の横合いから小さな影が僕に声をかけてきた。
僕は足を止めて答える。
「……怪我はいいのかい? ルーミィ」
影から出てくると、ルーミィはすまし顔でつんと顎をそらした。心配無用と言いたいらしい。傷どころか、ぼろぼろになっていた服すら元に戻っている。僕が手近な樽に座り込むと、ルーミィは隣に並んだ。
「あらかた終わったから、もういいであろう。第一、お前の役割はこれではあるまい? 敵を倒すのが我等の務め。味方の骸を片付けても贖罪にはならんぞ」




