願い
――暮れ始めた空。
白い息をはきながら、手を繋いで家路に急ぐ幼い兄妹。
あれは確か、僕が学校に上がって二年目の頃だったと思う。
フィアナはすっかり元気になっていて、僕が館の用事を言いつけられて外出すると、必ず一緒に着いて来ていた。遊びじゃないんだと言っても彼女は聞かなかった。
もっとも、僕の仕事はちょっとした買い物やメッセージを届けたりする程度のもので、つまりは子供のお使いだ。冬の到来を目前に控えた街路は冷え冷えとしており、人影もまばらだった。
「ねぇ、兄様知ってる? 古いおまじないがあるの。『最初の一片』っておまじない。その年に最初に降った雪の一片を捕まえるとどんな願い事もかなうんだって!」
「馬鹿だなぁ。最初にって、いつが最初なんだよ。峠の辺りならもうとっくに降っているし、天剣山脈なんか年中積もっているんだぞ」
そう指摘するとフィアナは寒気に赤らんだ頬を膨らませた。
「もう、これだから男の子って――あっ!」
僕の手を振り切って、フィアナは数歩駆け出した。
小さな背を精一杯伸ばして爪先立ちになり、彼女は天に手を伸ばした。答えるように、暗く曇った空から白い雪が舞い降りる。
「捕まえた! すごい、すごい! 捕まえたよ、兄様!」
僕はもごもごと適当に返事して、受け流した。
一斉に降り始めた雪のどれが最初の一片か、誰にもわかるはずがない。しかししつこく真実を突き付けて、はしゃぎ回っている妹をがっかりさせるのもかわいそうだ。
「どうしよう、どうしよう? なにをお願いしようかなぁ!」
フィアナの声はすっかり踊り出していた。もうとっくに解けているだろうに雪を捕らえた掌をしっかりと握り締め、こらえきれない様子で笑みをこぼしている。
つられて僕の顔にも笑顔が浮かんだ。
「好きなことを願いなよ。フィアナのなりたいものとかさ」
「なりたいもの……? うーん……」しばしの逡巡。「そうだ!」
ぱっと表情を明るくして、フィアナは僕を見上げた。
「兄様はメイル……なんとかになりたいのよね?」
帝国の少年ならメイルライダーに憧れを持つのが普通だ。僕とナジールもデイモンメイルに関する話をよくしていたが、フィアナが覚えているとは思わなかった。
僕にとっては強いモノへの単純な憧憬だけではない。デイモンメイルは自ら選んだメイルライダーを絶対無敵の装甲で守護し、立ちはだかる者は誰であろうと撃破する。髪や肌の色での区別は一切ない。なによりもそこに惹かれた。
――明るく笑ってはいるけれど。
フィアナの身体に生傷が絶えないことを僕は知っている。
そして訪ねてくる友人が一人もいないことも。
僕とは学年が違う。当然教室も違うしどうしても目が届かなくなる。
彼女は常に孤立し、同世代との友達付き合いをほとんど経験できなかった。嫌がらせがエスカレートし、やがて身の危険すら感じるようになる。結局フィアナは三年で学校を辞めざるを得なかった。
僕等は貴族を苛立たせ、庶民の嫉妬を招く存在だった。ナジールに深く感謝する一方で、ロドネイ家の庇護下でしか生きられない現実に苛立ちと無力感をも覚えていた。
だけど、もしもメイルライダーになれたなら世界の全てからフィアナを守ってやれる――当時の僕はそう思っていた。
「あたしが兄様の願いをかなえてあげる。兄様をメイルなんとかにしてあげるわ。その代わり、あたしの願いは兄様がかなえてね!」
呼称すら知らないのにおまじないは有効なのだろうか。
疑問を覚えつつ、僕は彼女の提案に応じた。
「ああ、いいよ。僕がメイルライダーになれたらね」
「約束よ、兄様!」
幸せそうにフィアナは笑った。
□
少女の顔はその頃の幼い妹と瓜二つだった。
つまりどれほど似ていても、この娘はフィアナではあり得ない。
だが理屈より直感が僕を支配していた。我知らず少女の肩をつかんでしまう。
「これは一体……君は……フィアナ、なのか……?」
少女は無表情に見返している。
目鼻立ちはもちろん、ごく薄くそばかすの浮いた頬や黒子の位置まで妹と同じだった。
「フィア……つっ!」
少女ははついと右手を伸ばして僕の腕を強く握った。
万力にはさまれているかのような底知れない力。引き離そうとしてもびくともしない。
「つあああっ!」
指先が腕に深く食い込み、骨が軋んだ。僕は痛みを堪えるのに精一杯となった。獲物が大人しくなったからなのか、少女はつかんだ腕を引っ張り、僕を引き摺って歩き出そうとした。
「――礼儀知らずが多くて困るな」
艶のある囁き声が耳朶を打った。
次の瞬間少女の指は引き剥がされ、彼女は紙のように宙に飛ばされていた。そのまま後方の石柱に頭から激突してどさりと地に伏す。気絶したのか、ぴくりとも動かない。
「これは我の男だ。血の一滴、肉の一片まで我のものだ。さっさと立ち去るがいい」
顔を上げるとルーミィの足が目の前にあった。つい先日と同じような状況だ。ルーミィは明らかな侮蔑を含んだ眼差しで横たわる少女を見下している。
「ルーミィ……? まってくれ、これは……」
少女の体がわずかに動いた。
口元から嘲笑を消し、ルーミィは面倒そうに目を細める。
「話は後だ。――やる気らしいからな、向こうは」
大気に紫電が走る。
横たわった姿勢のまま少女の体が浮遊した。
「下がっていろ、レイモンド!」
空中で体勢を整え、少女は砲弾じみた勢いでルーミィに突進した。速度をまったく殺さずに衝突し、二人は一塊になって石柱にぶつかる。あまりの勢いに柱が砕け、土煙があがった。ルーミィに馬乗りになると、少女は両の拳を揃えて握り、鉄槌のように振り下ろした。じゃらん、と手枷の鎖が鳴る。
「くうっ!」
拳は遺跡の石畳を深々と貫通した。
ルーミィは際どく上体をひねり回避したものの、跳ねた破片に頬を打たれる。紅い瞳が怒りに燃え上がった。拳の威力に脅威を覚えるより、舞い上がった埃で服と髪を汚された屈辱の方がルーミィの中で優先されたらしい。
「この慮外者がっ!」
金の髪が束になって鎌首をもたげ、倍以上の長さに伸びて少女の喉に絡み付く。振りほどく暇を与えず、ルーミィは少女の細い喉を締め上げた。
髪に持ち上げられ、少女の両足は地面を離れた。開いた口から舌を突き出し必死で喉元をかきむしって、髪を解こうとしている。ルーミィは立ち上がり、苦しみもがく相手を無視して服の汚れを払い始めた。
「よせ、やめろルーミィ!」
妹の顔を持つ少女が絞殺されるのを見るに耐えず、僕は叫んだ。
しかしルーミィはかえって怒りを募らせてしまった。両眼に憤怒を漲らせ、ぼそりと答える。
「嫌だ」




