信じる
誓うこと。信じること。
それは心の一部を他人に託すことと同義だ。剥き出しの心は脆く、ヒトはそれをたやすく引き裂ける。だから信じることは、とても危険で勇気のいる行為でもある。
僕はかつてフィアナに誓った。
お前は僕の妹だ。だから、僕が守る。ずっと一緒にいると。
救貧院にいた頃、フィアナは重い病気になった。
肌を吹き出物が覆い、ひどい熱にうなされ出すと、管理士達は彼女を追い出すことにした。救貧院は子供を育て、売り払うための施設だ。伝染して他の商品が駄目になるのを恐れたのだ。
僕は一緒に出て行くと言った。兄ならば当然だ。
もう少し成長していれば、僕には買い手がついただろう。だから管理士達は渋ったが、彼等の誰もが病状の進んだフィアナに触るのを嫌がったので、結局は許された。僕はフィアナを背負って門を出た。
後からわかったことだが、この病気には伝染性はなかった。
疲労と栄養失調からくるもので、充分な食事と休息で治ってしまうのだ。
だけど、僕等にとってその二つは絶望的に遠かった。
救貧院でさえそうだったのに、そこから出た孤児にまともな暮らしができるはずがない。たちまち行き詰まって僕等は飢え、フィアナの容態は悪化した。
僕には彼女を守るような力はなかった。無力な子供がなにをどう誓おうと、実現する力がなければ無意味だ。だけど僕がどうにかしなくては、フィアナは死んでしまう。
困り果て、空きっ腹を抱えてうろついていた時、目に入った館。
僕はなにも考えず、その館へ盗みに入った。それがロドネイ家の館だった。
裏庭を抜けて館へ忍び込もうとしたところで、ナジールに見つかった。すぐに大人達も現れ、僕はあっさり捕まってしまった。
彼にとっては面白いイベントだったのだろう。興味深そうに僕を眺めていたナジールに、僕は言った。
妹が病気なんだ。お願いだから助けてくれ。
――妹? で、代わりになにをしてくれるんだい?
なんでもする、と僕は言ったが、ナジールは頷かなかった。
――使用人なら間に合ってる。君にして欲しい仕事なんて、別にないよ。
困った末に僕は言った。
なら、お前の友達になってやる。絶対裏切らない、一番の友達になるって約束する。
それでどうだ。
ぽかんと口を開けた後、ナジールは大笑いした。よほど可笑しかったのか、目尻に涙を溜めて、彼は笑い続けた。それはそうだろう。住むところもない移民の子供が、貴族の御曹司に友達になってやる、と持ちかけたのだから。
しかしながらその地位ゆえに貴族にはかえって得難いものもある。
たまたまその一つが気の置けない友達と言う奴で、お陰で取引は成立してしまったのだ。
父親を説得し、ナジールは取り壊される予定だった庭師の小屋を僕等に与え、フィアナの病気を治してくれた。彼女が治療法術士を志すようになったのは、この時の経験によるものだと思う。
ロドネイ家の助力がなかったら、僕も学校には行けなかったし、メイルライダーの適性検査を受けることもなかっただろう。
だから僕は彼を信じた。心から信じて、僕も彼との約束を守った。
フィアナのことは信じるまでもなかった。彼女は僕の妹であり、それは信じる以前の問題だった。絆を疑う要素はなにもなかった。
それなのに――彼等は揃って僕を裏切ったのだ。
□
本館に戻る気になれず、ぶらぶら散策するうちに僕は遺跡の丘まで来ていた。
周囲には大小様々の石柱が放射状に並び立っていたが、半数ほどは崩れて地に還りつつある。
横倒しになった巨石の一つに腰を下ろし、僕は景色を眺めた。
なにかがそっと心をかすめていく。ばらばらで淡い印象の断片が取り留めなく現れては消えていく。遠い昔、ここに祭られていたのはどんな神だったのか。
石に刻まれた記憶はすっかり薄れており、読み取ろうとしてもはっきりしたことはわからなかった。
僕はこうした神の気配の欠片に触れるのが好きだった。メイルライダーとしてはあまりほめられた行為ではないのだが、彼等の声に耳を傾けながらぼんやりしていると、心が落ち着いてくるのだ。
気付けば、夕日は地平線の向こうへ消えかけていた。
公爵邸の反対側にあたる丘の麓は遠目にも粗末な天幕や、間に合わせの小屋に埋め尽くされている。逆光になっていて細部は見難いが、ウルクが言っていた避難民達のキャンプだろう。
汚れた衣服をまとい、身を寄せ合って不確かな明日に怯える避難民。
かつての僕等と同じ、寄る辺無き人々だ。こうなっては帝国臣民も移民も違いはない。冷たい風に震え、恐らく食べるものも満足には――
まて。おかしいぞ。
煮炊きの煙がない。
もうそろそろ食事の時間のはずだ。おまけに目を凝らしてみても、人影は一つも見つからなかった。いやな感じがした。
走ればすぐ麓に着く。
切迫したなにかに突き動かされて、僕は立ち上がった。
背後でかすかに鳴る、石を踏む音。
見れば、一人の少女が遺跡の中心部に立っていた。見通しの利く場所にも関わらず、少女がいつ現れたのか、僕にはわからなかった。
背格好は同じ位だが、ルーミィではない。どことなく似通った雰囲気があるものの、少女の風にそよぐ髪は黒色だ。彼女は避難民の一人で、ウルクが言っていたように石を拾いにきたのかもしれない。
きっと僕より先に遺跡にいたのだろう。それなら彼女が丘を登ってくるところを見かけなくても当然だ。根拠のない不安が薄れ、僕はほっとした。
脅かさないように、ゆっくり歩み寄った。
足音は聞こえているはずだが、少女は振り返らない。背中をこちらに見せたまま、じっと空を見上げている。素朴なジャンパースカートの裾には黒染みがついており、全体に薄汚れた印象だった。やはりこの娘は難民に違いない。
「ねぇ、君。なにをしているんだい?」
僕の問いに、姿勢を動かさず少女は答えた。
「雪を待っているの」
か細く澄んだ声には、年端のいかない少女特有の甲高い響きが混じっている。
僕も天を仰いだ。雲一つない。
「初雪はまだじゃないかな。少なくとも、今日は降らないと思うよ」
まるで落ちてきた雪をつかもうとするように、少女は背伸びして両手を高く差し上げた。じゃらん、と金属音がする。僕は息を呑んだ。
手折れそうに細い少女の両手首には、短い鎖で繋がれた頑丈な手枷がはめられていた。
姿勢が不安定になり、少女はよろけた。
僕はとっさに手を差し出して彼女を支えた。
なんてことだ、この娘は首枷まで――いや。
それよりも、彼女は。
「なっ……」
僕の手につかまって、少女はゆっくりと面を上げた。
指先も顔も赤黒い染みで汚れていたけれど、僕が彼女を見間違えるはずはない。
「フィ……アナ……?」




